深き海より蒼き樹々のつぶやき

Sochan Blog---深海蒼樹

2019年に直指庵を訪ねた話ーもしくはあの日キミが着ていたセーターについて

 この前に嵐山を訪ねたのは、2019年の12月初旬のことだった。ずいぶん久しぶりの嵐山訪問だったと思う。少なくとも10年以上は間があいていただろうか。
 40年ぶりと言っていいくらいご無沙汰だった直指庵にも立ち寄った。天龍寺が建つあのにぎやかすぎる道を渡月橋とは反対に向いてひたすら歩く。ところどころに、懐かしい建物や風景、交差点があった。しかし、僕は道に迷った。懐かしさに浸るよりも、その様変わりようは違和感にも似た驚きをもって僕に襲いかかり、あの頃キミと歩いた道を見失わせた。なにもなかった場所に新しい家が立ち並んで僕の視界を遮り、真新しい家が僕の記憶を迷わせた。
 それでもそこに直指庵はあった。ありがたいことに。庵は昔と変わらずにひっそりとしていた。僕と年齢のかわらない夫婦らしき男女がいて、訝しそうに僕を見た。僕だって誰もいないと思って、「えっ?僕以外に人がいるの?」と、彼らを訝しんだくらいだからお互いさまだ。
 想い出草ノートはまだあった。キミが書いたノートは庵のどこかに大切に保存されているか、ひょっとしたら供養されて燃やされているのかもしれないけれど。
 庵のなかに火の気はなくて、無造作に選んで持ち上げたノートの表面さえひんやりしていた。パラパラとなにげなしにページをめくる。いくつかの書き込みに目を走らせたところ、この庵を訪れる人は、さらにはノートになにかを記していく人は決して多くはないようだ。
 あの日、17歳だったキミはここでなにを書いたのだろう?
 僕は、庵の外でキミが出てくるのを待っていた。忘れたい黒く暗い思い出をノートに書き綴るキミの横にはいられなくて。あの頃、直指庵の想い出草ノートは密かなブームだった。多くの人が駅から遠く離れたこの庵にまで足を運んで、ノートに旅の思い出やここに書くしかないことを書き記したり、人が書いたノートを読み耽ったりした。熱心に鉛筆を走らせるキミの姿も、さほど珍しい姿とは受け止められなかったかもしれない。たとえ、大粒の涙がそのページやキミの書いたきれいな文字を濡らしていたとしても。
 いまさらだけれど、あの日僕はキミの横に座っているべきだったのかもしれない。さらには僕こそ想い出草ノートに思いの丈を書きつらねるべきだったのかもしれない。曖昧にして誤魔化していたいろんなものを、強いふりをして燻らせつづけていた暗い心も、くやしくてくやしくてどうしていいかわからない果ての慟哭についても。
 さて、そろそろ本気で体が冷えてきた。帰るとしよう。もう少しで還暦に手が届く運動不足の身には、駅まで戻る道のりがとてつもなく遠く感じる。でも仕方ない。自分でここまで来たのだから自分で帰るしかない。
 あの日、キミが着ていたセーターの手触りとぬくもりを、今でも時々思い出す。阪急電車のなか、キミの疵にいつまでもこだわっているのは僕自身だと突きつけられた別の日の思い出とともに。

そんなに身構えることはないーどうせ大した文章でも大した日々でもないのだから

 なんだかね、1週間ほどブログをあげてないと「あぁまずいな」なんて一応は思うんだよね。別にこれで食ってるわけでもないし、待ってる読者がいるわけでもないのに。「あぁまずい、まずい。書いてないわ」なんて頭にはあるんだけど、結局書かない期間が週単位から月単位くらいになって余計に書けなくなってしまう。
 インプットしたらアウトプットしなきゃってどこかに強迫観念みたいなものがあった。でも、このあいだこの動画を見たんだよね。

youtu.be

 大瀧詠一さんってのがおもしろすぎた。
 「興味あるものを3年間かけて学者的なまでに徹底的に調査して一冊の本すら出さない」
 「えっ、共有しないの?」
 「共有なんかしない。『あぁおもしろかった』で終わりなんだよ」
 「究極の自己満足」

 いいよね、究極の自己満足。たとえば、このYouTubeすら紹介する必要はないんだよ。これを見て「あぁおもしろかった」で、それで終わりでいいんだよ。僕が満足していればいい。僕が楽しければいいんだよ。でもなんだかそれも寂しくて書いてしまいました。

 

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そろそろ2024年の抱負を考える

 そもそも今年の抱負なんてものは、前の年のうちに考えておくことなのかもしれない。それはそうなんだけれど、今年の抱負なんて今年になってからじっくり考えればいいやと思っていたら、新年からいろんなできごとが起きすぎて頭も体も心もいろんなものがおっつかなくて、正直疲弊して抱負なんて前向きなものにとりかかる気持ちにすらなれなかった。おそらくは日本中の人々が大なり小なり「なんて年明けなんだろう。今年の日本は大丈夫なのか?」と思ったに違いない。

 元旦の能登沖地震に始まり、翌日の羽田空港滑走路上での衝突炎上事故、いくつかの殺傷事件や事件の判決や、性加害の案件、今も一番堪えているのは芦原妃名子さんという漫画家の自死に至った件だ。当事者やマスコミも誰も真摯に対応しないし説明もしない。いつまでも憤懣が晴れなくてもやもやする。この件があるまで知らない漫画家さんだったのに、なんだかつらくてやりきれない。

 そういうわけで、つらつらダラダラとした日々を送ってきた。なんだか体にも心にも力が入らない。体重は前回の通院日に二人の医師から叱られたにもかかわらず、さらに増えてしまった。
 でもまぁ2月も半ば近くになったことだし、無理矢理にでも前を向かなきゃと思うまでには落ち着いてきた。今日は自室の掃除と少しの模様替えにも手をつけられたし、あとひと息で背筋が伸びそうな気もする。

 今年の目標。
 まずは、桜を見たい。暖冬のせいで早ければ来月にも咲きはじめるかもしれない。そんな近々のことを抱負にしても仕方ないけど、桜が見たい。そして、ひょっとしたらという気持ちもある。体は芳しくはない。頭の血管がブチっと切れるかもしれないし、心臓が急にその動きを止めるかもしれない。毎日、「あっ、来るのかな?」なんて小さな不安が繰り返される。だから、この小さな棘のような不安を乗り越えて、今年も桜が見たい。
 4月まで死なないで生きていたい。

 もはや、2024年の抱負ではなくて、今現在の僕の希望であり願いにすぎない。
 もしも叶うなら、今年は娘と桜を見に行きたいな。赤穂あたりだとなおいい。青い海と空と混ざり合った桜がどんなにきれいかを娘に教えたい。

どうもボケはじめたかもしれない

 それは先日の病院での出来事だった。採血と検尿を終えて心電図測定の順番を待っている間、まだまだ呼ばれそうにないのでスマホを手にしようとした。
 「ん?どのポケットに入れたっけ?」
 すべてのポケットを探り終えた僕は、はたと考える。
 「車に忘れてきたかな? そもそもスマホを病院に持って入ったんだっけ?」
 そう言えば内科受付がはじまるのを待ってる間、仕事関係の伝達事項をスマホで確認したんだった。ということは、スマホを持って院内に入ったことに間違いはない。そうか、あのときのあの席に忘れてきたのかも。
 と、僕は心電図検査室の前から離れて少し前に座っていた席を見に行った。が、その席にはすでにほかの人が座っていたし、やや慌てている感を醸し出しているであろう僕の挙動に反応する人もいない。
 「ここではない気がする」
 改めて、僕は自分の記憶を辿る。内科受付の前に何をしただろう?
 「あっ、血圧を測ったんだった」
 僕が通う病院では血圧測定は院内に配置された器械でセルフで行うことになっている。あのとき測定器の隣りに置かれた荷物カゴの中にスマホを置いた記憶が鮮明によみがえった。しかしながら、時間が経っているせいか荷物カゴに僕のスマホは見当たらなかった。
 仕方なく、僕は顔馴染みとは言わないまでもなんとなくお互いを認識し合ってる内科受付の係の女性に事情を説明した。
 「あぁ、これですね」
と、ここでことが収まるのを期待していたものの、彼女は、
 「それらしきスマホを総合受付で預かっているはずです」
と、教えてくれた。
 仕方なく僕は総合受付に行く。たどり着いた総合受付は、予想どおりに混雑していた。そんなときに自分の不注意で忘れたスマホの件を切り出すのは気が引ける。気は引けるのだけれど、心電図の順番が回ってくるまでに検査室に戻りたい気もある。
 ようやく総合受付の係の人が手渡してくれたスマホは間違いなく僕のものだった。機種名や色、形も合致した。それでも念の為と、忘れ物の受領書への記入を求められ、僕は素直にその要求に従った。
 いろんな人の手を煩わせはしたものの、スマホは無事に僕の手元に返ってきた。
 一件落着。

 それは、病院からの帰り道、買い物に立ち寄ったスーパーでの出来事だった。
 早く順番がまわってきそうだとあたりをつけたレジに並んだ僕は、コートから財布を出して会計の準備をしようとした。コートのポケットをさぐり、ズボンのポケットをさぐり、エコバッグの中をさぐった。僕はひとつの可能性としてレジかごの底で商品に埋まってやしないかと、ゴソゴソと商品かごのなかもさぐった。しかし、僕の長財布は見当たらなかった。またしても失くしものだ。
 身につけていないのなら、あとは車のなかへの置き忘れしかない。いきつけの薬局で薬の処方を受けたあと、薬の入ったバッグと財布を僕はどこに置いただろうか?
 レジの人に事情を説明して商品の入ったかごごと預かってもらった。車に財布を置き忘れてくる客なんて日常茶飯事だろうと僕も思ったし、レジの人も「あぁ」と軽く頷いて片手を出すと、面倒くさいそぶりも見せずにレジのカウンター内の足元に僕のレジかごを置いた。
 ただ、それだけの話だ。けれど、スマホにつづいて今度は財布だ。半日のうちに二度、僕は些細なつまらない物忘れをした。注意力が足りないなと、自分に呆れる。もしくは、ボケがはじまったんだろうか?

 そして、今度のそれは忘れ物がつづいた日の翌日に職場で起きた。
 「お先に」
と、短い挨拶を残して部屋から出ようとしたときだった。
 僕は昨日の件があるので自分の手のなかにスマホが握られていることを確認した。手がなにかを握っていることは確かだった。けれど、手に握っているのがスマホではなくてリモコンだったという前科をわが家で犯している僕は、目でも確認するべく自分の握りしめているものを見た。間違いなくスマホだ。白のiPhone。そのとき手が画面に当たったのか、待受画面が起動した。その画面を僕は二度見する。二度見したあと、さらに三度見した。
 「だれ?」
 僕には待受画面で微笑む男性が誰であるのかはわからなかったけれど、僕の待受画面でないことだけは確かだった。
 「深海さん、それ私のスマホですよ」
 慌てて追いかけてきたのか、少し息を切らした部下の女性に声をかけられた。
 待受画面を見ても腑に落ちない僕は、未練がましくスマホを裏返してみる。そこにも僕の見慣れない花柄模様があった。つい一瞬前に白いiPhoneだって確認したはずなのに。
 彼女は怒ってはいなかった。怒ってはいないけれど、少し驚いていた。その彼女に恐る恐る僕は尋ねる。
 「じゃあ、僕のスマホはどこにあるんだろう?」
 「えっ?」
 今度こそ、彼女もひいた。
 「そこまでは私にもわかりません」
 結局、僕のスマホはいつも僕が置いている場所になにごともないようにあった。職場でもスマホを忘れることや、いつもの場所と違う場所に置いて探索の旅に出ることはある。けれど、人のスマホを持って帰ろうとしたのは初めてだった。自分のスマホをなくすのはまだしも、人様のスマホに手を出すのはまずい。たぶん、非常にまずい。今日の彼女はなんとか笑って済ませてくれたけど、彼女だって決して気持ちのいいことではない。いや、はっきり言って気持ち悪いにきまってる。ついに、本格的にボケはじめたんだろうか? そう言えば、妻は、「一回、脳ドックでも受けてみる?」と神妙な顔で僕に言った。

 そして、それは他人様のスマホを持って帰りそうになった二日後に起こった。
 「ほんとに自分でもびっくりしたよ。自分のスマホを置き忘れるだけならまだしも、他人様のスマホに手を出すなんて迷惑もいいとこだ。ほんとにボケたのかなぁ」
 僕の話を聞いているはずの妻の反応が薄いのが心配になって、僕は妻の方を見た。
 「ん?」
 そこには呆れ顔とも、憐れんでいるようにも見える妻の顔があって、こう言った。
 「ねぇ、その話、昨日もしたの覚えてる?」

書くのか書かないのかはっきりしろよって話

 2024年の幕開けは、能登沖地震羽田空港滑走路での追突炎上事故、秋葉原での殺傷事件などなど、予想もしていなかったことや目を覆いたくなるような惨事がつづいた。私的にも年末には思いもかけないライフイベントが発生して、新年も半月が過ぎたというのにその時の疲れが澱のように身体の隅々に沈みこんで潜んでいる気がする。それとも年々すり減っていく体力気力、つまりは単なる老化の言い訳にすぎないのかもしれないけど。

 ブログをやめないのはなぜなんだろう? 書けないというか、書くことがないのならやめてしまえばいいのに、と我ながらたびたび思う。小説が書けないことの誤魔化しのようにブログを書いているとも言えるし、ブログなんかにかまけてないで小説を書けばいいじゃないか、とも思う。
 しかし、問題は明白だ。小説もブログもどちらも書けないと言うことだ。
 では、「書けない」とはどういうことなんだろう?
 時間はある。じゃあ、書けばいい。
 いや、でも書けない。
 なぜ?
 ないから。
 なにが?
 才能が。努力しようとする忍耐強さが。
 答えが出てるのなら、くよくよせずにあきらめたら?
 いや………。

 新年になって娘に会う機会があった。
 書けない親から、書きたいという若い娘への伝言。
 「とにかく書けばいい。結局のところ書いていない悪い見本がここにいるから、こんな風にならないように」
 彼女は複雑な苦笑いを浮かべた。

 人のことより、自分はどうするんだって話だよ。ほんとに。

 

 この映画、おもしろかったです。主人公の決していい人ではないところを、役所広司さんが見事に演じてる。

 

なんだかんだ結局やっぱり若冲という話

 11月に
 相国寺承天閣美術館 
   「若冲と応挙」第I期応挙『七難七福図巻』
 細見美術館 
   開館25周年記念展I期「愛し、恋し、江戸絵画ー若冲北斎・江戸琳派
の、ふたつの美術館を一日でハシゴした。

 相国寺承天閣美術館では全期通して、若冲の『動植綵絵』が展示されている。(『動植綵絵』は、1889年に明治天皇に献納されており、現在は宮内庁の所蔵となり、国宝認定されている。2023年11月3日から宮内庁三の丸尚蔵館が一部リニューアルオープンされ、そちらで本物の『動植綵絵』の一部が公開されていることでも耳目を集めた)相国寺ではレプリカとは言え『動植綵絵』全30幅と、釈迦三尊図が一堂に公開されている。どうか機会があれば是非ともこの若冲の色彩の海に溺れてみてほしいと思う。

 幸か不幸か、この『動植綵絵』を見たあとに訪れたのが細見美術館だった。長らく行きたい行きたいと願いながらも、今回が初めての訪問だった。その佇まいはぼくの予想を裏切って実におしゃれであった。(勝手ながらもっと朴訥というか質素というか和風というか、平屋の日本家屋風イメージを抱いていた)
 そして、そこにあったのは薄暗い館内の展示スペースにぴったりなモノクロの若冲だった。思わず、「あっ」と声が漏れた。これは完全にやられた。短い時間にこのふたつの若冲を堪能できるとは。しかも、まったく違う美術館で。ただただうれしくてニヤケ顔が止まらない。
 お土産に、『虻に双鶏図』の絵葉書を買った。さっそくにデスクまわりに飾ったら、家に帰ってからもニヤケ顔が止まらない。

 なんだか、応挙も江戸琳派もどうでもよくて、結局のところ若冲の一人勝ちのような気がした。


 11月にもうひとつ、会期が終わるところを駆け込みで見に行ったのが、
 中之島美術館 
   長沢芦雪 奇想の旅、天才絵師の全貌
だった。4年くらい前に岡山の県美で見て以来、蘆雪って面白いなと思っていた。

 長沢蘆雪は応挙の高弟でもあるのだけれど、意外ではある。そしてぼくの友人もその事実を知らなかったところを見れば、蘆雪が応挙の弟子であったことも意外と知られていない。
 その師弟関係のせいか、この展覧会では両者の似たような絵が並べられていた。
 両者タイトルも同じ『牡丹孔雀図』。応挙の『百兎図』と蘆雪の『笹に雀、雪に兎図屏風』。応挙の『仔犬図』と蘆雪の『梅花双狗図』など。
 蘆雪を見に行ったはずなのに奇妙なことが起こった。人混みを避けて展示会場をざっと見渡したり、展示されている作品を流し見したときに、「あっ、あれはうまいなぁ」と目を奪われた作品が、すべて応挙のものだった。
 (ぼくはあくまでも絵に関しても素人だ。だけど、今回はつくづく「応挙って絵がうまいんだ」とバカみたいなことを素直に思ったのだ。それも今回の蘆雪展の収穫のひとつだと思っている。決して、蘆雪を悪くいうつもりはない)

 そして、もう一つは、同時代の作家ということで作品が並べられた若冲蕭白だ。というか、若冲だ。しかも、『象と鯨図屏風』だ。鯨はさておき、同時代の人々はこの象を見てどう感じたんだろう?屏風としても大きなものだし、インパクトが半端ない。率直に言って、蘆雪展にこの若冲を持ってきちゃいかんだろ、と思った。
 (ここでも蘆雪を悪く言うつもりはない。ないけれど、辻惟雄氏が『奇想の系譜』で「若冲蕭白に比べて蘆雪は弱い」と指摘したのもやむなしかなと思えてしまったのも事実だ)
 やっぱり、結局のところ若冲でいいんじゃないの、という思いがまたまた湧き出てきてしまう。

 ちなみに、蘆雪展の最後の方に、若冲、応挙、池大雅蕭白、蘆雪といった面々が何年に生まれて何年に亡くなったかを並べたグラフのようなものがあった。最初に生まれて最後に亡くなったのが若冲なのだ。その人生の長さにおいても期間においても、他のものを包含している。それはいかにもどの要素も漏れなく若冲には入ってることを表しているようにも思えた。

 だから、タイトルにしたように、結局、若冲でいいんじゃない?っていうことなのだ。もちろん、よくなくても全然いいんだけれど、あらためて若冲ってすごいんだな、と思ったってだけの話です。

5年ぶりに電車に乗った話

 先日、見たい展覧会があって京都市内に出かけてきた。ぼくは兵庫県北部に住んでいて、とても鳥取が近い。鳥取砂丘の馬の背にのぼったことも5回以上あるはずだし、鳥取イオンにもよく買い物に行くし、僕の財布の中には鳥取の店のスタンプカードがたくさん入っている。
 そう言えば鳥取市内にスタバができるまでは、我が家から最も近いスタバは(最短時間でたどり着けるという意味で)羽田空港内のスタバだった。我が家→鳥取空港羽田空港と、うまく行けば2時間以内にたどり着ける。兵庫県内のスタバよりはるかに近い。

 都会に出かけたというぼくの鮮明な記憶は、2018年12月の東京行きまで遡る。鳥取コナン空港から羽田空港に飛ぶのが最も近いので、その時もその前の年にもそうした。実に5年も前の話だ。
 だが、それ以来、都会らしい都会に出かけた記憶がない。出張で金沢に行ったのは行ったけれど、車移動ばかりだったしあまり都会感はなかった。それもコロナ以前の話だ。

 そんなぼくが久しぶりに都会らしい都会に出て、車移動ではなく(厳密には亀岡駅までは車だった)電車に乗ってみることにした。それも5年前に使ったきりのスマホSuicaを使って。券売機に並ぶ人がほぼいないことは、5年前にも経験済みで知っていた。ずっと昔、券売機の前に行列を作って切符を買っていたのが懐かしい。素早く目的地までの切符が買えるように、並んでいるうちに路線図を確認して財布からお金を出して準備しておくのがマナーだったはずだ。行列が進んで券売機の前に到達してから、よっこらしょと路線図を見上げるお年寄りにイライラしたのは若気の至りだろうか。今ではイラつかれる方の立場になってきた。

 予想したとおり、JR亀岡駅の券売機前に立ったのは、ぼくと外人男性1名のみだった。後ろに並ばれるプレッシャーがなくていい。さてと、一応、券売機上にある路線図を見てみる。2000円もチャージすればこと足りるだろうか。いや、さしたる確信はなかったのだけれど、財布から出しやすかったのがその金額だったのと、足りなければ足りないでどう対応すればいいのかを経験する機会になる。
 運よく券売機のなかで一番初めに目についたのが、『チャージ』という文字だった。そうだ今回ぼくがやりたいのは、券売機で自分のスマホに入っているSuicaに現金でチャージすることだ。券売機右手下あたりに、ここにスマホを置けってことだろうなというようないかにもな長方形の部品がある。ぼくは素直にそこに自分のスマホを置いてみた。次に、『現金チャージ』とかなんとか書いたボタンを見つけた。押してみる。金額を尋ねられて2000円を選ぶ。なにやらよくわからないけど、慌ててスマホを動かすなと、チャージはまだ終わってないぞと警告された気がする。それはなんとなく予感がしていた。まだ動かしてはいけないと。まもなく、聞きようによっては「チャリーン(毎度あり〜)」って音がした(気がする)。チャージ完了だ。
 ぼくは知らない間に額に浮いていた汗を拭い、大きな安堵の息を吐いた。そして、今日のやるべきことはやったという充実感と、『まだまだいけるぞ』という謎の自信を深めて、券売機の前に仁王立ちして『ドヤっ』てみた。もちろん、券売機及び隣で切符を買っていた外国人にも、「なにしとんねん、このおっさん」という目で見られただけだった。

 亀岡駅の改札を通った。ぼくは右利きだけど、スマホは左手で持つ派だし文字入力も左手でする。しかし駅の自動改札はいまだに切符利用者に合わせているのか、切符の挿入口やICタップが右側にある。ぼくは左手を伸ばして水戸黄門の印籠をこれでもかと悪代官の頬にぐりぐりこすりつけるように、右側のICタップ画面にねしつけた。
 そして、難なくというか、あっけなくというか、当たり前の結果としてというか、自動改札の扉が開いた。僕のなかではちょっとだけ、『Oh!』って声が漏れていた。

 幸先はいい。では、いってきます。