深き海より蒼き樹々のつぶやき

Sochan Blog---深海蒼樹

WONDER(ワンダー)ー単純かつ複雑で、嫌悪しながらもたまらなく愛おしい世界について

wonder

 この本は、分類するなら児童書になるらしい。もちろん、こういった分類に意味がある場合もあれば、ない場合もある。児童書とは、その読者を主に子供たちと想定して書かれた本だと僕は解釈している。もしくは、子供でも容易に読める文章で書かれた本であると。
 文章は、いたって平易だ。どのキャラクターの章も、すらすらと読みやすい。それはまるで、僕が本を読むという能動的行為を、僕自身が行っていることを忘れてしまうくらいに。つまりは、誰かが読み聞かせをしてくれているがごとく、僕はただじっとその話に耳を傾けているだけでいい。それくらい、容易に頭に入ってくる文章であり、それくらい、それぞれのキャラクターがイキイキとしていることでもある。
 主人公は、オーガスト。本の帯にも書いてある。『オーガストはふつうの男の子。ただし、顔以外は。』と。
 そう、顔以外は、彼は普通なのだ。けれど、僕の頭は途中で彼を『障害者』的なものと誤認してしまう。もしくは、僕はオーガストという10歳の男の子のイメージとして、ジョン・アーヴィングの'A Prayer for Owen Meany'を思い出したりした。(すごくすごく体が小さくて、休憩時間にはクラスメートにバスケットボール代わりに投げられたりして、弄ばれている。身体的にはかなりなハンディキャップではあるけれど、彼は女子が大好きで積極的にナンバに出かけたり、野球の試合では生まれて初めてバットにボールが当たったファールボールを親友のママのこめかみに当てて死なせてしまったり…)深刻であるのに、深刻でないように感じさせる語り口も似ているのかもしれない。
 この本は400ページもあるというのに、休みが1日あれば簡単に読めてしまう。推理小説やサスペンスのように、仕掛けや謎があるわけではないのに、あなたは本を途中で閉じられなくなる。しかも、本の方があなたに語りかけてくると感じるくらい平易な文章なので、あなたは読むという努力をする必要もない。

 内容については、あまり語りたくない。だからと言って、語ってはいけないような謎解きやオチがあるわけではない。
 各章ごとに語り手として登場するのは、すべて子供だ。オーガストの姉であるヴィアやその同級生が新高校生ということなので、最年長の語り手と言っても16歳くらいだろうか。オーガストのパパやママ、学校の先生が語り手として登場することはない。彼らや彼女たちが語ったことは、子供たちの目を通して子供たちによって語られる。この本の中は、どこまでも子供たちだけの世界なのだ。
 随所に、些細なことが、丁寧に書かれている。とてもさりげなく。なんでもないことのように。
 例えば、オーガストの親友ジャックが、初めてオーガストの家を訪問し、彼の部屋に入ったときの話。

「かっこいいiMacだなあ」と、ぼく。
「ジャックのは、どんなパソコン?」
「あのさ、ぼくは自分の部屋もないんだよ。パソコンなんて持ってるわけないだろ。親のものすごく古い(略)

 もしくは、オーガストの姉であるヴィアの元親友だったミランダの章。

 ヴィアとの友だちづきあいをやめてから恋しくてたまらなかったもののひとつは、ヴィアの家族だ。ヴィアの父さんと母さんが大好きだった。いつもあたしを歓迎してくれて、とてもやさしかった。なにより自分の子どもたちを愛しているのが、あたしにもよくわかった。この二人のそばにいると、世界中のどこよりもすごく安心できた。自分の家にいるより、ほかの人の家のほうが安心するだなんて、情けないもんだよ。それから、もちろん、オギーが大好きだった。(略)

 抜き出してみたけれど、うまく伝わってない気もする。ジャックの家庭が決して裕福でないこととか、ミランダの両親が離婚してしまったこととか、本を読んでみればその伏線なりが見事なことにあなたは気づくかもしれない。もしくは、子供時代に友人の家を羨ましく思ったことを、あなたも思い出すかもしれない。
 たとえば、自分の部屋を持っている子供は、それが当たり前だと思っているから気づかない。自分の部屋を持っていない子供だから見えたり、感じるものがある。子供だから漠然としか分からなかった親の経済格差だとか、『大人の事情』。

 さっきも書いたように、この本は子供によって語られた世界だ。大人が語り手になることはない。ジャックの両親が、自分の息子のためにどれだけ懸命に生活を成り立たせているのかを自身で語ることはない。ミランダの母親が、女を作って出て行った夫や、ミランダとの母子家庭について語ることはない。僕も親のはしくれとして、親という立場に立つなら、親だって大変なんだとひとこと語りたい場面もある。けれど、それは許されない。ここは、子供たちが主役の世界なのだ。その禁忌(タブー)なり規則(ルール)を破るわけにはいかない。
 物語の途中、ぼくはふと自分の娘を思わずにはいられなかった。娘から、僕はどんな風に見えていたんだろうか?と。娘は僕のことをどんな風に語っていたんだろうか?と。
 そして、きれいごとで言うなら、僕の娘ではない絶対的多数の子供たちのことも思わずにはいられなかった。彼ら彼女らに、僕はどんな大人として映っているのだろうか?と。そのまなざしの真剣さに、胸がつまる。

 最後にもうひとつだけ、引用させてもらう。
 オーガストの学校の、トゥシュマン校長のスピーチだ。前後を略してあることを、了承して読んで欲しい。

「『人生の新しい規則を作ろうか……いつも、必要だと思うより、少しだけ余分に人に親切にしてみよう』」
 トゥシュマン先生は顔をあげ、みんなを見た。
「必要だと思うより、少しだけ余分に親切に。なんてすばらしい言葉でしょう。ただ親切なだけではじゅうぶんではありません。必要だと思うより、少しだけ余分に親切に。わたしがこの文章、その言わんとすることに心を動かされた理由は、わたしたちが人間として持っている能力を思い出させてくれるからです。人間には、親切である能力だけではなく、親切であろうとすることを選ぶ能力もあります。(略)」

 

 そうだ、僕たちは、いや、僕は、もっと親切であろうと常々思えるはずだ。『少しだけ余分に親切に』の『余分に』選んだ親切があってこそ、自己満足ではなく、子供たちや他者が感じ取れる親切なのかもしれない。
 この愛おしい世界のために、愛おしい子供たちのためにも、『少しだけ余分に親切に』。