深き海より蒼き樹々のつぶやき

Sochan Blog---深海蒼樹

再び、自転車に乗る(もしくは、あの頃の話)

jitenshadou

 昔々、30年近く前、僕は人生初のボーナスとやらで、ロードバイクを買った。そして、それは、社会人になって金を稼いだらこうしたいという僕の夢のふたつ目が叶ったということでもあった。
 学生時代、僕が社会人になってしたかったことは、紀伊国屋で手提げの紙袋にいれてもらうくらいたくさん本を買うことと、ロードバイクを買うことだった。学生の頃の僕は、所謂、単行本には手が出なくて、文庫本ばかりを買っていた。まぁ、あの時代、雰囲気としては、学生は文庫本って感じであったと僕は思うのだけれど、ひょっとしたら、バイトもせずに友人たちの温情のおかげで食いつないでいた僕だけがそうだったのかもしれない。
 学生の溜まり場である一角で文庫本を読んでいると、誰かがやってくる。そこに行けば大抵の場合、僕がいると知っている誰かだ。あいにく気心の知れた友人には会えないけれど、(だって、スマホも携帯も勿論LINEもfacebookもない時代だった。そう、まだポケベルだってなかった)、少なくともあそこに行けば深海ならいる。そんなあぶれた誰かが、毎日のように入れ替わり立ち代りやってくる。

 あるときは、Aを見なかったか?というお尋ねだけだし、もしもBが来たら部室にいると伝えておいてくれという伝言を預かることもあった。時には、アレが来ないんだけれど、二股かけていてどっちの彼の子供かわからないのよ、という世間話を聞かされたり、学食のおばさんが、絶対に誰にも言っちゃダメよと鬼のような形相で凄んだあと、あまりもののサンドイッチをこっそりくれたりした。自販機で買った紙コップのコーヒーを置いていってくれる誰かもいたし、煙草を置いていってくれる誰かもいたし、今日は食欲がないからと言って作ってきた弁当を代わりに食べてと言って弁当を置いていってくれる誰かもいた。お金はなかったけれど、悲惨でも、さして惨めでもなかった。多分に、まわりの誰かに恵まれていたおかげで。

 けれど、そんな時代は、卒業とともに終わった。もう誰も僕のところに訪ねてはこない。そもそも、溜まり場的な僕の居場所もなくなってしまった。誰かが僕を訪ねようと思っても、僕がどこにいるのかわからないし、それをわざわざ探してまで訪ねてこようとする誰かもいなかった。
 思い返しても、不思議な時代だった。奇跡の時代と呼んでいいくらい恵まれた時代だった、僕のなかでは。
 誰かがやってきて、今日、時間はあるかと僕に尋ねる。ある、と答えると、その誰かはバイト先でもらったという映画の株主優待券を僕に渡す。あげるから、観てきてくれ、そして、よければその映画評を聞かせてくれと、その誰かは言う。いいよ、と、僕が答えると、じゃぁ、後日またと、誰かが言う。
 その後日、その誰かが再び僕のところにやってくる。そして、学生街の喫茶店で僕はその映画を語る。その誰かの奢りのコーヒーを飲みながら。
 あるいは、別の誰かがやってきて、同じように、今日、時間があるかと僕に尋ねる。ある、と答えると(大抵の場合、僕には時間だけはたっぷりとあったのだ。授業にもほとんど出ないし、バイトもしないし)、動物園デートがしたいから付き合ってよと言われる。
 彼女が買ってくれた切符で電車に乗り、彼女が買ってくれたチケットで動物園に入り、動物を見て笑って、時々手をつないで(デートだから)、彼女の目から涙が溢れる前に僕らは別々のホームで別れる。彼女が帰りの電車代を心配してくれるけれど、定期券があるから大丈夫だと僕は答え、彼女が、そうね、バレないようにねと、微笑む。
 彼女は奢っただけでは不十分と考えたのか、後日、珍しく授業に出るために教室にいた僕の隣りの席にやってきて、いきなり僕の布製筆箱から中身を机にぶちまける。前から思ってたんだけど、手垢で黒ずんできてて汚いから洗ってきてあげる、それからこれ出しといてね、と、出席カードをちらかった机の上に静かに置くとさっさと教室を出て行った。
 あの頃、僕のまわりには、お節介な誰かがたくさんいた。

 これ、と言って、分厚いコピーの束を誰かが置いた。僕は、追っていた文字から目を離して、文庫本をもったままその誰かを見る。
 ありがとう、でも、僕には…と僕が言い終わらないうちに、その誰かが、深海が金を持ってないことくらい百も承知だから気にしなくていいと、僕の言葉を遮る。いや、さすがにこの分厚さはタダっていうわけには…と続けようとする僕を、オレが勝手にやってることだから気にすることないし、深海が負い目を感じることもない、これ以上つべこべ言うようならオレは怒る、と、またしてもその誰かが僕を遮る。
 そして、試験の結果、僕はその誰かがコピーしてくれた講義ノートによって、その誰かよりもいい点数をとってしまう。やっぱり深海にコピーを渡して正解だったよと、その誰かはどこまでもお人好しな目でうれしそうに笑う。
 僕は、授業にはあまり出なかったけれど、試験はそこそこ受けた(試験を受けないことには単位をもらえないし、卒業できないんだから、当たり前のことではあるけれど)。まったく歯が立たなくて、試験時間の最後まで、ほぼ90分間ただ座っていただけのこともあった。開始から30分経てば、答案用紙を提出して退室してよかった。だけど、白紙の答案用紙を出して退室するのはなんだか失礼な気がした。授業に出ないのがそもそも失礼ではあるのだけれど、僕は居眠りもせずただじっと座って白紙の答案用紙を見つめていた。
 教授がやってきて、退室しないのかと、僕に尋ねる。最後までいます、と、僕は答える。そうか、と、教授が言い、来年はたまには授業に出てこいよと、僕の肩を叩いて通り過ぎていくかと思いきや、数歩通り過ぎたところで引き返してきた教授が、来年はもっと難しい問題出すからな、と言って笑った。

 大学には、第二外国語というものがあって、僕はロシア語を選択した。不運にもロシア語を選択した文学部生が少なかったせいで、僕らは法学部の連中と合同のクラスに入れられ、文学部の時間割ではなく法学部の時間割に組み込まれていた。しかし、最大の不幸は、法学部生との合同クラスでも、法学部の時間割に組み込まれたことでもなく、その授業が土曜日の午後からに設定されていたことだ。
 金曜日の夜は残業も早めに切り上げて帰りたいのと同じように、学生だって土曜日は早めに帰りたいのだ。しかも、クラスメイトたちは別の曜日に第二外国語の授業が設定されているので、容赦なく帰っていく。もしくは、深海も帰ろうぜと、誘ってくる。
 そんなわけで、僕は、4回生になってもまだロシア語IIの単位がとれていなかった。その授業は、土曜日の4時間目という蹴飛ばしたくなるような時間に設定されていた。
 僕のいた大学では、夏休みが7月の1日からはじまった。だから、夏休みに入る直前か、2週間前くらいだったのだろう。僕は、その年、初めてロシア語の教室にいた。1回生のときからずっとかわらない非常勤のロシア語の先生が、出席をとりはじめる。単位を落としている者は、まともな2回生のあとに名前を呼ばれる。年老いた先生は、名簿に目を落としたまま名前を読み上げていく。2回生の声はすでに記憶しているだろう。3回生の名前が読み上げられるけれど、誰も返事をしない。先生の読み上げ方も、返事を期待していない先を急ぐような読み上げ方に変わっている。
 深海くん、と、先生が言い、次の松野くんを読み上げそうなギリギリのところで、僕は、はい、と返事をした。え?、と、先生が明らかに声を出して、名簿から顔をあげ、まじまじと僕の顔を見た。
 深海くん、久しぶりですね、元気でしたか?、という先生の言葉に、2回生たちが笑う。学食ではちょくちょく会うけれど、教室で会うのはいつくらいぶりでしょうねと、先生が言葉を重ね、後ろの方の席に座ったできない先輩を振り返りながら2回生から失笑が漏れる。
 で、深海くん、今年卒業するつもりはあるのかな?、と先生が親切に尋ねてくれる。僕は、はい、そのつもりですと、答える。出席点はゼロですから、夏休みの課題レポート、頑張ってくださいよ、では授業をはじめます。

 夏休みの課題レポートは、教科書数十ページ分の露文和訳だった。決していい課題とは言い難いような、難しい文章であった。何の話なのかを掴むのが難しい文章だったのだ。直訳では、伝わらない。けれど、意訳すると、基本からはずれてしまう。その匙加減が、難しい課題だった。
 簡単に言ってしまえば、海の岩場にのぼっていったオットセイだかアシカの話だったのだけれど、その状況を掴むのが難しい文章だったのだ。けれど、僕はかなり真剣にこのレポートに取り組んだ。何度も何度も辞書をひき、直訳と意訳の間の落とし所を模索し、最初から最後まで丁寧に訳したうえで仕上げの整形まで施した。かなりの労作だったと自負している。
 レポート提出から1ヶ月経った10月、先生から返されたレポートには、小学生の答案用紙に描くような花マルとともに、イラストが描かれていた。見るからに描くのは苦手なはずの、申し訳ないが下手くそなイラストが、僕には最初わからなかった。しかし、よくよく考えて、よくよく見ると、それは、岩の上に寝転んだオットセイだかアシカのイラストだった。かなり好意的に解釈しないとそうは見えない代物だったけど、僕はよけいにうれしくなってそのイラストをニヤニヤしながら長い間眺めていた。
 先生がどんな気まぐれでそんなイラストを描いてみようと思ったのかは定かではない。いや、それは気まぐれでもなく、語学教員としての真っ当な教示であったのかもしれない。それにしても、みんなお節介でやさしい人たちだった気がする。多少、年月とともにバイアスはかかっているだろうけれど。

 そして、あれから30年の時を経て、僕はまた自転車を買った。今回は、ロードバイクではなく、クロスバイクだ。それでも颯爽と風を切って走りたくなったのだ。僕はまたペダルを漕ぐことにした。