夏休みも後半にさしかかった昼さがり、中学3年生になる娘と僕は、冷蔵庫でよく冷やした残り少ない麦茶を、お互いに渋々ながらも分け合って仲良く台所で飲んでいた。
「そうそう、お父さん、あの本読んだよ」
と、出しぬけに娘が言った。
なんの本のことを言ってるんだろう? 娘に薦めていた本なんてあったろうか?
「居間の棚に置いてあった文庫本」
「あぁ…」
確かに、気が向いたら読んでみたらと薦めた本があった気がする。ただそれはもう年単位で数えられるくらい昔の話のような気もした。
「あの本、学校の図書室にも入ってきたんだよ。だから、読んでみた」
「ふーん」
と、返事をしながらも僕は少し傷ついていた。
だって娘は僕が薦めたから読んだのではなくて、学校の図書室に入ってきたから読んだってはっきり言った。父親の推しよりも、学校からの推薦の方が重いらしい。まぁ、そういう娘ではある。クソがつくくらいにまじめだ。こんなふわふわとした父親よりも学校の先生が言うことの方がよっぽど説得力があるのだろう。
『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』は桜庭一樹の小説だ。サブタイトルもついていて、こちらは、"A Lollypop or a Bullet."となっている。
わが娘と同じ女子中学生ふたりが主人公。
ひとりは、山田なぎさ。早く大人になって片田舎からの脱出を夢見ているが、『大人になって自由になったら…だけど十三歳ではどこにもいけない』と現実の壁を前にもがいている。
もうひとりは、転校生の海野藻屑(うみのもくず)。元アイドル歌手の父親が大好きで、自分のことを『人魚』だと言い、父親からの虐待を父親からの愛情だと受け取り、やがてその愛情は猟奇的殺人という結末を迎える。
10代のいろんな意味での危うさを描いた小説だ。
「海野藻屑、かわいそうだったね」
「うん」
「名前からしてふざけすぎてるし」
確かに、生真面目な娘からすればいくら小説中の名前とは言え、海野藻屑はないのだろう。
これはいい機会なのかもしれない。以前からキミに伝えたかったことを伝えるための。
ただ、喉が渇く。まさかこんな話になるとは思ってなかったから。さっき奪い合った麦茶は飲み干してしまっていたし、この喉の渇きが暑さのせいでないことを僕は知っていた。
「10代ってむずかしいんだよな、いろいろと」
と、僕はさぐりを入れるように言葉を押し出した。
「そうなの?」
と、当事者であるはずの現役の中学生にそう言われて少し拍子抜けがした。
「いろいろとむずかしいし、危ういもんなんだよ」
テーブルに置かれたグラスの表面に水滴がついていた。まるで冷や汗をかいている僕のようだ。
「人生って…」
と切り出したところで、娘がこちらを見た。
僕がその視線をかわしてグラスに話しかけはじめると、娘も台所の床に視線を落とした。
「人生って楽じゃないんだよ。イヤになるくらいいろんなことがある。あっちにもこっちに落とし穴があったり、道だと信じていたものの先に谷底が大きな口を開けて待ってることだってあるし」
急に父親はなにを語り出したのだろうと、娘のからだに一瞬力が入るのがわかった。
僕は昔々キミと同じ10代だったころ、どうしようもなく生きることがイヤだったんだ。生きていたくなかったし、生きることに自分は向いてないと思っていた。
いつしか僕は大人になって結婚して、キミを授かった。ただ、子供をもつかどうかについてはかなり迷った末の決断だった。生きることに不向きだった僕が、自分の子供になんて言えばいいんだろう? でもキミがこの世界に生まれた瞬間から、僕はずっとキミにこう言いたかったんだ。だから、今日は言う。
「とにかく死なないでほしい。死なずに生き残って最後まで生き抜いてほしい」
ほんとうはもっと強い言葉で「死ぬな」と言えれば言いたかったんだけど、それは言えなかった。
からだの力を抜くように、娘は椅子に腰掛けたまま両足を子供のようにぶらんぶらんとさせて、ほんの少し怒ったような顔でこちらを向いた。
「死なないよ、私、絶対に」
「…」
「…」
「うん」
映画監督の「カット〜」の大声のように、グラスの中の氷が溶け落ちて大きな音を夏の午後に響かせた。
(2012/10/29)