田舎の国道を車で走っていると、歩道を歩く父と娘と思しき親子の姿が目についた。
この地では、歩道を歩く人などほとんどない。
とにかく、通学の時間帯の児童や学生でもなければ、たとえそれが広く立派な歩道であったとしても、そこを歩く人の姿はないのが、田舎というものだ。
その土地がいかに田舎であるかを測るとき、歩道を人が歩いているかというのは、ひとつの大きな物差しになる。
そういう意味では、その親子の様子がどうこう言う前に、この田舎で人が歩道を歩いていること自体も、確かに物珍しいことではあった。
しかも、今は夏休みで、通学のために歩いている様子ではなかったし、更には、盛夏は過ぎたとはいえ、そして、まだ午前中だとは言え、車に搭載された車外温度計はちょうど30度を、僕に親切にも教えてくれていた。
今日も、暑くなりそうだ。と言うよりも、もう十分に外は暑くなっているようだった。
その親子が、僕の目をひいたのは、小学校の低学年らしき、その娘さんがとても嬉しそうだったからだ。
なにが楽しいのかはわからないけれど、ニコニコと笑いながら、父親の顔をしきりに見上げ、まるで訴えるように話しかけている。
それだけでも微笑ましい風景であるのだけれど、娘さんは言葉だけでは物足りないのか、この暑いなか、手をつなぐと言うよりも、父親の腕をつかんでブンブンと振り回して、はしゃいでいる。
40に手が届くかどうかといった風情の父親は、熱心に娘の話を聞くわけでも、可愛い娘に見るからにデレデレしているわけでもなく、しきりに歩道の彼方にひろがる田んぼの稲が気になるようだった。
けれど、彼の素っ気ない『演技』は下手くそで、僕がちょうど彼らの横を車で通り過ぎるとき、彼の表情は明らかに嬉しくて仕方ないといったふうだった。
その喜びは、決して、娘さんのように、見るからにはしゃいだ大きなものではなかったけれど。
それは、かつての、僕の姿だった。
小学生の娘と連れ立って、ただ近所を散歩するだけで、なんであんなに楽しかったのだろう?
思い起こしてみれば、あの頃は、無邪気で無防備で、無条件でお互いの愛情でつながっていられたような気がする。
こちらが、「手をつなごう」と言わなくても、娘の方から、僕の手をつかんできた頃の話だ。
夏の日のなにげない通りすがりに、僕は見知らぬ親子の幸せを祈らずにはいられなかった。
しかし、父と娘の蜜月が、意外と早くに終止符を打つことを、僕が彼にあえて伝える必要はないだろう。
ある日、「今日からお父さんとはお風呂に入らない」と、宣言されたときの僕の気持ちを、彼もいつかは知ることになる。
僕は、ほんの少し前に、学校の図書館にでかけると言って出て行った娘に、強く思いを馳せる。
それは、片思いだった女子について思いを馳せた、若かりし頃の気持ちとどこか似ている。
どの父親だって、娘に恋をする。
かなわぬ恋だと知りながら。
時間が合えば、今日は、娘を迎えにいってやろう。
手はつないでくれないだろうけれど、車を降りる間際、ぶっきらぼうな「ありがとう」は、聞けるかもしれない。