このブログの数少ない読者なら、うっすらとは覚えてくれているかもしれない。
ふーん、「くるり」かぁというエントリーを書いたのは、2013年の11月のことだった。
それが、ほぼ初めての、僕の「くるり」体験だったわけだ。
そして、ベスト盤の購入を経て、「くるり」にハマってるような、ハマリきれてないような日々なるエントリーを書いたのが、2014年7月17日のことだった。
大好きなグループとまではいかず、でも、なんだか気になって仕方ないみたいな、中途半端な状態を書いたエントリーだった。
たとえば、木村カエラが、『奇跡』という曲は、むちゃくちゃ名曲だと、テレビ番組で涙ぐみながら訴えていても、なんだか僕にはイマイチぴんとこないところがあった。
確かに、悪い曲ではないとは、思う。
けれど、あまりにも、シンプルで、短い曲なのだ。
冗舌で、やたらと長い曲もしんどいのだけれど、『奇跡』という曲は、ほんとうに短い曲なのだ。
短かすぎて、その中から物語を汲み出そうとすると、言葉足らずになってしまう。
具体的な設定というものが、まるでないような曲なのだ。
通勤の車のなかでも、始まったと思ったら、少し曲から耳を離して運転に集中しているだけで、いつの間にか曲が終わってしまっている。
何度も言うように、これといった物語も、具体的な情景も浮かばないまま。
しかし、このところ、やっとこの曲を捉えた気がしている。
一向に上達をしないままではあるけれど、僕は中学生の頃から、ギターをたしなむ。
家人の留守を見計らって、こっそりと、弾き語ってたりするわけだ。
『奇跡』という曲は、弾き語ると、すごく気持ちいいということを、発見した。
そして、聞くのではなく、自らが歌うことで、その歌詞は僕の体のなかを通って行く。
歌を聞いている時だって、確かに、その歌詞は耳から入って、僕の頭なり、心なりに届いてはいるのだろうけど、なんのひっかかりもないまま素通りすることもある。
けれど、歌うとなると、その歌詞を僕のなかから外に出すわけで、僕はより肉体的にその歌詞を一旦は受け止めなくてはならないような気がする。
あくまでも、極々自分勝手な、僕だけのイメージではあるけれど。
大袈裟に言えば、その曲や歌詞を作ったのは僕ではないけれど、僕が歌うということは、そのメロディや歌詞は、僕が発したものなのだ。
うまいヘタは、とりあえず、置いといて。
で、なにがわかったかと言うと、歌詞なんてなくても、このメロディラインが気持ちいいということが、すごくわかった。
聞いてるだけではわからなかったのだけれど、歌ってみて、この曲のよさがよくわかるようになった。
というか、この曲は、頭だけ、耳だけで聞いてはもったいない。
自分で歌って、自分の声で聞くと、尚、いい。
そして、加えて言うなら、いつも同じ箇所で、僕は少しだけウッとなる。
聞いていた時には、そんな風には感じてなかったのに。
うまく伝わるどころか
掛け違いのボタン
困ったな
という、歌詞だ。
一方的に、僕が間違ったわけでも、誰かが間違ったわけでもないのだろうけど、言葉はうまく伝わらない。
こんなにも切実に、真剣に、伝えたい思いがあるというのに、どこでどう間違えてしまうのか。
そこには、一片の悪意すらないにもかかわらず、それでも、うまく伝わらない。切ないくらい。
ただただ、困ってしまうくらい。
言葉は転がり続け
思いの丈を通り越し
うまく伝わるどころか
掛け違いのボタン
困ったな