春だね。
僕の住む町でも、桜が咲いた。なかには、気の早い奴もいて、すでに桜吹雪となって、まだ少し冷たい風に舞ってしまっている花びらもいる。
ついこの間咲いたばかりなのに、とは、例年思うことではあるけれど、そういう思いを噛みしめることも含めて、春なのかもしれない。
少なくとも、冬の寒さと曇天つづきの鬱陶しさから抜けだして、気分までが明るく、あたたかくなってくるのが、春なのだ。
気象状況の不安定さは、最早、それすらも季節の常套句になってしまった感があるけれど、僕の住む町も、その例外ではなかった。
積雪量は、例年に比べて少なかったとは言え、寒暖のぶり返しが激しく、3月には、『これはもう春と言っても過言ではない』と呟いたことが、何度かあるくらいに暖かい日がつづいたこともあった。
にもかかわらず、遅まきながらスタッドレスの冬用タイヤをノーマルタイヤに交換したと思ったら、4月に入っても、雪がちらついたり、せっかく咲いた桜の花びらを、突然の霰のつぶてが打つなんていう珍しい光景もあった。
そもそも古より、春は、三寒四温と言うけれど、今年の春への季節の移り変わりはそんな生易しいものではなかったように感じる。
まだまだ、僕の頭も身体も、春だと安心していいんだろうかと、半信半疑でもある。
なので、この文章の冒頭の『春だね』という言葉には、春であってほしいという願望と、春で間違ってないよね?という確認と、『春だね』と言い切ってしまうことでなんとしても春にしてしまおうという戦略などなどが、入り混じっていることを、打ち明けておこう。
あなたの町にも、春は訪れているだろうか?
なんだかくすぐったいくらいに、センチメンタルな文章になっているのは、きっと春のせいだ。だから、気にしないでほしい。もしくは、気になっても、許してほしい。
そして、僕は、もっとセンチメンタルな言葉を用意しているのだから、今から身構えておいたほうがいいかもしれない。
僕は、あなたと手をつないで、歩いてみたい。
この文章を書きだしたつい数分前には、僕は、カップルが仲良く手をつないで歩く風景を、頭に描いていた。僕が住む町にあるような、田舎の、畑の一本道を歩く姿を。
それとも、真新しいランドセルを背負った子供の手を引く、母親や父親、おばあちゃんやおじいちゃんとのツーショット映像が、思い浮かんでいたりした。
けれど、書いているうちに、そんなことは、どうでもよくなってきた。
勿論、女性とふたり、手をつないで歩きたいというロマンチックな僕の願望は、捨てきれない。それは素直に認めるけれど、そんな風景はもっと別の機会にとっておこう。
それよりも、あなたが、男でも女でも、若くても若くなくても、そんなことはどうだっていい。
ふたりっきりでも、道幅が許すのであれば何人であってもいい、僕はあなたと、もしくは、あなたたちと、手をつないで歩いてみたい。
僕が、ここにいるように、あなたたちもそこにいることを、手をつないで歩くことで確かめたい。そして、共に、喜びあいたい。
こんなことを思うのは、それもきっと春のせいなんだろう。
冬から春にかけての季節の移り変わりには、厳しい冬を耐え忍んで乗り越え、生き延びてまた春に出会えたという感慨が含まれている。
水の中に潜っていて、肺の中に溜めた酸素を使い切る前に、なんとかまた水面から顔を出して息つぎができたような、そんなホッとした気分でもある。
だから、
僕は、あなたと、手をつないで歩いてみよう。