つい先日、樹齢千年と呼ばれる古い大ザクラを見に行った折に、高校生の娘とランチをとった。
おかげさまで、父親を嫌悪することもなく、年に2回くらいは二人でランチに出かけている。
正直なところ、中学生の頃に一度、ランチに誘っても断られることが増え、娘が離れていっているなと、薄々感じていた時期があった。けれど、ちょうどそんな微妙なときに、僕は病に倒れ、集中治療室のベッドの上で生気を失っていくさまを、娘は見ていた。おそらく、そのとき、娘は娘でなにかを感じ取ったのだろう。
自宅療養をしていて、やっと元気が出はじめた頃にランチに誘ったら、以前のように、「行くよ」と答えてくれ、切れかけた糸はまた繋がった。
それは、最後のデザートを選ぶときに、起こった。その店では、トレイいっぱいに載せたケーキの中からデザートを選ぶことができた。
あまたある美味しそうなケーキの中から、娘は、なんの迷いもなく抹茶のロールケーキを選んだ。
いやいや、少しは、迷ってみようよ、と、僕は思ったわけだ。加えて、なんでこの娘は、そんなつまらないものを選ぶんだろう?と、ついつい、心の中でそんなことを思っていた。
いや、心の中でだけではなく、思わず、
「春なんだし、春らしいケーキにすればいいのに」
と、言ってしまった。
店員さんが、抹茶ロールに伸ばそうとした手を、止めた。
「うーん、そう言われればそうだよね」
気を悪くした様子もなく、ありがたいことに、店員さんが、
「これなんか、桜とイチゴの取り合わせで今の季節の限定品ですよ」
と、言ってくれた。
それは、ピンク色をした、春らしく、うちの娘にぴったりな可愛いケーキだった。
そうだ、そうだ、せっかくなんだから、そういうのを選んで欲しいよな。
「ほんとですね、美味しそうだから、これにする」
店員さんの勧めを受け入れて、娘は春らしい、一度聞いたけれど覚えられないような名前のケーキを選んだ。
基本的に、僕と娘は、違ったものをオーダーして、二人で仲良くシェア(半分分け)し合うという習性をもっている。
そうした方が、いろんなものを食べられて楽しいからだ。
そのときも、娘が、
「食べる?」
と、僕に、ひとくち薦めてきてくれた。
けれど、そのケーキは、ひとくち食べるには気がひけるくらいに小さ目だったので、僕は、珍しく娘の勧めを辞退した。
そして、その直後、僕は娘に、
「それより、このモンブラン…」
と言いかけて、皿の上に乗った自分のケーキを見て、愕然とした。
モンブラン?
僕は、もう一度、自分が今しがた口にした言葉を頭の中で反芻し、目の前にある皿の上に乗ったケーキを見渡した。しみじみと、呆れ果てながら。
今は、紛れもなく、春だ。そして、僕は、春らしいケーキを選んだらどうだと、娘に半ば強要した。
で、そんな僕の眼の前にあるというか、僕が選んだケーキは、なんだって?
モ・ン・ブ・ラ・ン
本当に? 肌寒いくらいの気候であるはずなのに、冷や汗が出てきた気がする。
モンブランと言えば、栗。→栗と言えば、秋。そして、モンブランと言えば、年がら年中ケーキ屋から姿を消すことのない定番中の定番ではないか。
勿論、モンブランには、それだけの存在感というか、季節を越えた我々の熱い支持があるからこそ、その地位にいるわけだ。苺のショートケーキと肩を並べて。
しかし、そんな言い訳を口にするのも憚れられるほどに、今回はちょっとやってしまった感が大きすぎる。
心優しい娘は、ここぞとばかりに僕を攻めてくることはないけれど、『モンブラン…』と呟いたあと、動きを止めて凍りついた僕から視線をはずすと、こらえきれずに少し笑った。ような気がした。
確かに、笑われても文句の言いようのない状況ではある。
あまりに見事なまでに、自分のことは棚にあげて、娘の選ぶケーキについてあれこれ口出しをしていたとは…。
でも、ひょっとしたら、それは、僕だけがそう思っているだけかもしれない。実は、娘は、まったくそんなことには無頓着で、気づいてないのかもしれない。
わずかばかりの希望的観測を携えて、敢えて、僕は、『モンブラン』とは言わずに、
「食べる?」
と、娘に尋ねてみた。
娘は、首を振って、
「せっかく、春らしいケーキ食べてるところだから、今回は遠慮しとく」
と、言った。