4月に入って、グンと春めいた日々がつづいている。(と言っても、4月になってまだ2日しか経ってないけどね)
今年は例年よりも雪の少ないシーズンだったとは言え、肌寒い風が吹きつづいた。もちろんそんな中では梅の花は咲かないし、桜は蕾さえ膨らまない。なんだかね、そんな感じの3月だった。
それが4月に入った途端、桜の蕾は膨らむどころか、勢い余って梅の花も追い越して咲きはじめる始末。あれよあれよと言う間に、一気に春になってしまった。
そんな春に、うちの飼い猫、メルモ・コルトレーンが突然逝ってしまった。
その話を書かずして4月をはじめることができそうにないので、書いておこうと思う。
メルモ・コルトレーン、通称メルは、8年ほど前、ペットショップのもらってくださいコーナーでタダで頂いてきた雑種の猫だ。
コルトレーンという名前は僕と娘で考えたというか、僕の希望を娘が一旦は承諾したものの、実際に飼い始めて2日目には僕以外の家族全員がメルモちゃんと呼びはじめ、結果的に却下された名前だ。メルモの「モ」もとれて、メルと呼ばれるようになっていった。
飼い始めて10日間ほどは、僕も頑なにコルトレーンと呼んでいたのだけれど、そのうち僕がコルトレーンと呼んでも反応しなくなったので、仕方なく僕もメルと呼ぶようになった。
猫を飼いたいと言い出したのは、娘だった。一人っ子である娘に、妹も弟もいないからせめて猫を飼わせてほしいと言われて、僕ら夫婦は返す言葉も見つけられなくて猫を飼うことにした。
だから、メルは、娘の妹なのだ。
『ほら、メル、お姉ちゃんの部屋へ行っておいで』
『メル、僕は忙しいから、お姉ちゃんに餌をもらいなさい』
メルの視線で娘を呼ぶ時は、自然とそういう言い方になっていた。
死因は、よくわかっていない。
娘の部屋にいた時、いきなり『ぎゃっ』と短く叫んだと思ったら、パタリと倒れて息絶えていたという。
すぐに何度かお世話になっていた獣医に電話したけれど、「脳か心臓に何かがあったのだろう」と言われたのと、「これから病院に連れてきても、助かることはないでしょう」と言われてしまったとのことだった。
実は、メルが逝ってしまう前日、僕が出勤する間際にメルは嘔吐をしていた。滅多にそんなことのない猫だったので、イヤな感じがした。
しかも、メルは数年前、太い輪ゴムを飲み込んでしまって開腹手術をしてもらったことがある。それ以来、僕らはメルが飲み込みそうなものを、不用意にそこら辺に置いておくことはなくなった。
なくなったはずなのだけれど、メルは嘔吐した。
その夜に帰宅した僕は、居間のコタツに腹這いになって入っている娘の背中に乗って、気持ちよさそうに眠っているいつものメルの姿を見た。
まぁ大丈夫なんだろうなと、希望的観測のもと、僕はそう思っていた。
その朝、僕が出勤するとき、台所を見ると、メルがいつもの場所に置かれた水入れから水を飲んでいた。
その時にも、あぁ、大丈夫なんだと、僕は思おうとしていた。
もう一度開腹手術をするとなると、それはそれで大変なことになる。
まず最初に僕の脳裏を横切ったのは、手術代のことだった。前回払った手術代も、かわいいメルのためとは言え、大きなため息が出るほどには高額な出費だった。
あの時は、退院して、なんとか一命をとりとめたメルに、
『メル、次はもう知らないからね』
と、妻が抱き上げたメルに向かって真剣な顔をして釘を刺したんだった。
『メル、いってくるよ』
僕は、その背中に声をかけて家を出た。
メルはわざわざ水を飲むのをやめて返事をするような猫ではない。それでも不意に声をかけられたせいで、片方の耳だけがピクンと小さく動いた。ただ、それだけだった。
そして、それが生きているメルを見た最後になってしまった。
家に帰ると、メルはタオルを敷き詰めた段ボール箱に、暖かい毛布と花をかけてもらって娘の部屋にいた。
翌日には、動物霊園で弔ってもらうということになったらしい。
『まるで眠っているようだ』
と聞いていた通り、その姿はいつもの安心して眠っている時のメルの姿だった。
僕は、その頭と頬のあたりを撫でてやる。
そのカラダは冷たいとまでは言わないけれど、生きているものの温もりも柔らかさも既に失っていた。
『メル』
と、僕は、呼びかける。
メルに触れた手が、そこにすでに命がないことを知ったはずなのに、僕は呼びかけずにはいられない。
『メル、どうした?』
僕は何を言ってるんだろう。どうしたもこうしたも、メルは逝ってしまったのだ。だから、ここに横たわっているというのに。
その顔を見ていると、今にも眼を開けそうな気がしてしまう。いつものように、「気安く撫でるなよ」と、僕の指を甘咬みして怒ってくれるような気がする。
けれど、なにも起こらない。ほんとうに、イヤになるくらい、なにも起こらないのだ。
どれくらいの時間、そうやってメルを撫でていただろう。
『こんなことをしていても、生き返らないよな』
と、言いながら娘を見た。
既にそんな思いで何度も何度もメルを撫でてやったであろう娘は、
『そうだね』
とだけ、力なく答えた。
メルの命を引き止めるために僕らにできることは、もう何もなかった。
どんな死にも、後悔がつきまとう。
あの時こうしておけばこんなことにはならなかったかもしれないのに…。
それが最良だと思って下した決断や判断も、果たしてそれは正しかったのだろうかと、人はいつまでも悔い悩む。
あの嘔吐は、なんだったんだろう、と。
あるいは、死が生から死へのまったくの一方通行であることを思い知る。
一度、死に行き着いたなら、生の側に戻ることは二度とできない。
こんなにもきれいな死顔で、生きていたときとなんら変わらず、今にも起き出してきそうだと言っても、それは既にもう生の側にはいないのだ。
僕がどれだけ思いを込めて撫でてやっても、娘が涙ながらに撫でてやっても、こちら側にはもう戻ってこれない。
それが、死、なのだ。
家猫ではあるものの、外に出るのが好きな猫だった。
娘の部屋の窓を開けたところに物干し場があって、その窓を開けろと、メルによく催促されたものだった。猫なで声で頼むというよりは、怒ったように、まさしく「開けろ」という命令調の催促だったけれど。
物干し場づたいに屋根に出たメルが、瓦の上にちょこんと座って、春の風に短い毛をなびかせながら気持ちよさそうに目を細めている。
メルの大好きだった春がきたのにね。キミは、もういない。
なかなか家に入ろうとしない屋根の上のキミに向かって、
『メルー』
と、大声でその名前を呼ぶことももうないんだね。
なんだか、ひどく寂しいよ。
たかが、飼い猫が1匹逝ってしまっただけのことじゃないか…、僕はそう思おうとする。もうすぐ51歳にもなろうとする、大の男が涙することでもないし、泣いてなんかないさ。ただいろんな感情がうまく整理できてないんだ。
メル、ありがとう。
やすらかに、おやすみ。