僕の娘は、はや高校生になってしまって、ずいぶんと長い間娘を抱きしめた覚えがない。じゃれ合ってスキンシップたっぷりに遊んでいたのも、小学生までだったように記憶している。
まぁ、でも、子供とはそんなもんだろうな。特に、女の子だしね、今では、こっちの方が気を使ってしまう。
無遠慮に、なんの躊躇もなく、スキンシップしてられた期間なんて、今になって振り返ってみれば、ほんとに短い時間だったように思う。
僕は、娘を抱きしめるのが、好きだった。
でも、あれはきっと、僕は娘を抱きしめるふりをして、ほんとうは娘に抱きしめてもらっていたような気がする。
我が家では、娘が小学4年生の頃から、猫を飼いはじめた。今では娘の代わりに、僕は、時折、その猫を抱きあげる。
飼いはじめの頃は、みんながよってたかって抱きあげたものだけれど、今では、わざわざ猫を抱き上げるものもいなくなってしまった。僕と、そして、娘が時々、抱きあげてやっている。猫自身がそれを喜んでいるのかどうかは、わからないけれど。
猫のそのわずかな重みを通して、僕は、それがまぎれもなく生き物であることを実感する。時に、その温もりや重みが、僕を落ち着かせてくれて、癒してもくれる。
それは、生き物がもつ、もしくは、同じ哺乳類の動物がもつ、あたたかみなのだ。
最近、僕は思う。
日本には、ハグっていう習慣はないけれど、あれって、いいことだよね、って。
日本人にとっては、ハグが色々な意味合いにおいて難しいのであれば、それは、握手でもいいのかもしれない。
そういう風習をもった外国の人たちというのは、ただ見るだけではなくて、実際に相手に触れることで、相手も同じ生き物であり、人間であることを確認しているのかもしれない。もしくは、相手が人間であるように、自分も人間であることを、相手に伝えているのかもしれない。
なぜなら、人は、簡単に、相手も自分と同じ人間であることを忘れてしまうから。
自分と同じように傷つきやすく、脆い心をもった人間だということを忘れ、過剰にイラつき、必要以上に相手を攻撃したりする。
そのことによって、相手が、何を感じ、どう傷つくのかを、想像する余裕もないままに。
だから、抱きしめ合い、手を握ることで、確かめ合った方がいい。
確かめ合ってから、話し始めればいい。
なんだか、そんなことを、やけに思いはじめている。
【追記】
つまらない話だけど、ずっと昔、初めて女の子と手をつないだとき、僕はその手の小ささに驚いた。
同い年の彼女だし、ずっと対等に話をしてきたし、幼い頃からずっと一緒に歳を重ねてきたし、同級生の中では身長だって高いほうだったし。
でも、実際に、その手に触れてみれば、その手は僕よりもずっと小さかった。そばにいたのに、彼女のことが大好きだったのに、僕はそのことに、彼女と手をつなぐまで気づきもしなかった。
僕は、なんだか、彼女にすごく申し訳ない気がしたことを覚えている。