仕事を終えて、夜中の12時近くに帰宅すると、テレビニュースでは、店に列をなす人の姿が映し出されていた。
その姿は、一瞬、アップルストアに並ぶアップル信者たちの姿と重なったけれど、すぐにナレーションが『ハルキスト』なる何度聞いても耳慣れない言葉を使って、状況を説明しはじめた。
これから、村上春樹の新刊本が発売される。それは、小説の内容も、本の装丁さえも極秘にされてきたもので、熱烈な『ハルキスト』たちは、発売日になったと同時に販売するため特別に開店する書店に並んでいるのだという。
村上春樹の本を買うために、夜中に人が並んでいる。/br>
つまりは、そういうことなんだ。
それを、一刻も早く手に入れたいと、書店の前に人が並んでいる。
しかも、それは、村上春樹の本なのだ。
いや、僕は間違っている。それは、村上春樹の本だから、人々は並んでいるのだ。
そして、マスコミはこぞってそれを中継し、時に、レポーターが興奮を抑えきれずに、甲高い声をあげる。
ゆるめていたネクタイを完全にはずし、リモコンでテレビをoffにして、僕は、浴室に向かった。
今日は少しばかし、長めに浴槽につかっていよう。せめて、村上春樹の新刊を手にした人々の興奮がひと段落ついて、その人々が通り過ぎていくまで。もしくは、人々が物語を読みはじめて、静けさを取り戻すまで。
風呂からあがって、パジャマに着替え、洗った髪をドライヤーで乾かし、歯磨きをすませる。
眠くなったら、いつ眠ってもいいようにして、僕は、自分の部屋に入り、パソコンをつける。起動音が出ないようにしているMacは、その内部でわずかな動作音をたてただけで、たちあがっていく。
RSSをチェックし、メールをチェックしていると、Amazonからのメールが目に入った。
その件名には、「『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の発送」とあった。
そうだ、僕は、何日か前に、その本を予約していた。高校2年の娘と、そろそろ新刊が出るらしいよという話をして、別に早くにそれを手に入れたいと思ったわけではないんだけれど、送り先の名前を彼女の名前にして、事前予約をしたのだった。
そのメールを開く前に、僕は、さっき見たばかりのニュースを思い出し、品薄のため発送が遅くなるというお知らせだと思った。そりゃそうだろうな、並んでまで買いたいって人がいるのだから。しかも、予約したのは、ほんの少しばかし前のことだったから。
しかし、開いてみたメールは、すでに発送しましたよ、というAmazonからの通知だった。
ぴゅー
それが、午前1時を過ぎてなければ、そして、僕に口笛を吹くスキルがあれば、僕は間違いなく短く口笛を吹いただろう。
そうか、わが家にも、その本がやってくるのか。思いもかけず、こんなに早く。
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僕が気づいたとき、Amazonからの荷物は、居間のコタツの上に無造作に置かれていた。桜が散りはじめたとは言え、僕の住む兵庫県のいち地方は、時にはストーブをたく朝もあるくらいに冷え込む。だから、それは、まだ「コタツ」で間違いない。暖かくなれば、コタツ布団が取り除かれて、それは、「テーブル」と呼ばれるようになるわけだけれど。
例の、あの、Amazonのラベルには、娘の名前が印刷されていた。僕が、そうして注文したのだから、当たり前のことだ。
ほどなく学校から帰ってきた娘も、その荷物に気づく。あたりが暗くなって、夕方から夜になったばかりの時刻だ。その荷物を巡って、わけのわからないなにかが、僕らのなかでにわかに張りつめる。ほんの少し、そんな気がした。
そう言えば、僕は、今朝、娘と顔を合わせてなかったから、会話もなにもしてなかったのだ。僕が起きてきた頃には、彼女はすでに学校へ向かうバスの中にいた。おそらくは、僕が誕生日にプレゼントしたウォークマンで、熱心に音楽を聴いていた、はずだ。お気に入りの音楽ではなく、一緒のバスに乗り合わせた、男子生徒の話に熱心に耳を傾けている娘の姿は、あまり想像したくない。
「あっ、これって、お父さんが買ってくれた村上春樹の本だよね?」
それだけ言うと、荷物を開けもせず、触れることすらせずに、洗面台に手を洗いに行った。
そして、ダイニングに戻ってくるなり、
「お腹、すいた」
と、言った。
そんなもんさ。
その荷物を急いで開けたからといって、空腹が満たされるわけではない。うまくいけば、空腹すら忘れさせてくれるかもしれないけれど。その場合、忘れられた空腹感は、いったいどこへいくのだろう?
夕食を食べはじめた直後に、娘が、
「昨日、夜のニュースでもやってたよ」
と、軽く、その話題に触れただけで、それ以上のなにごともなく、僕らはいつものように夕食をすませた。
それよりも、学校でのちょっとした出来事や、その日の夕食のおかずについて、僕らは熱心に語り合った。
そんなもんさ。
頭の片隅で、もう一度、誰かの声がしたような気もしたけど、僕らはそのまま、食後の洗い物までをすませた。
食後のコーヒーでもいれようかと迷っていたところ、出し抜けに娘が話しかけてきた。
「ねぇ、開けてもいい?」
僕は、娘のこういうところが、好きだ。
もちろん、彼女が尋ねているのは、自分宛にAmazonから届いた、村上春樹の本についてだ。
僕は、
「あなたの荷物なんだから、好きなように開けたらいいよ」
と、答える。
娘は、無言だったけれど、すごく嬉しそうな笑顔で、その言葉に答えた。
僕は、荷物を娘宛にしておいてよかったと、心底思う。
ゴボゴボという、コーヒーをドリップするために注ぐお湯の音の向こう側から、
「あぁ、テレビで見たのと同じ表紙だ」
という、開封の儀を終えた娘の声が、聞こえた。
相変わらず、つまらない感想だなと、僕が台所でニヤツイているのも知らず、
「へぇ、当たり前かぁ」
と、娘のひとり言がつづいた。
「ほらほら」
注がれた透明なお湯が、挽いたコーヒーとペーパーフィルターを通って、色彩を帯びた雫になって落ちていくのをぼんやりと眺めていた僕に、娘が、本をかざして見せてくれた。
娘が言う通り、確かに、ニュースで見たのと瓜二つの表紙だ。
そして、僕は、切り出した。とても、大切なことを、確認するように。でも、気づかれないように、さりげなく。
「読むんだろ?」
と、僕が、促すと、
「それがねぇ…」
と、笑顔が一転くもって、小首をかしげながら、ちょっと迷っているようだった。
「どうした?」
さほど心配まではしてないけれど、その理由を尋ねてみる。
「これから私は、小論文を書かなくてはいけないんだよぉ。お父さんが代わりに書いてくれるんなら、読めるんだけど…」
いやいや、たまには、娘もそんな冗談ともつかないことの少しも、言えるようになったんだ。
でも、僕は、娘の代わりに小論文を書いたりしないし、娘も、本気で僕に代わりに書いてくれなんて言うことは、今までもなかったし、今後もありえないことだ。
「だから、お父さん、先に読んで」
僕はつくづく、この娘は、不思議な子だと思う。こういうところで、彼女は的確な言葉を選ぶ。『読んでもいいよ』とは言わずに、『読んで』と、言う。
あまりにでき過ぎだと思うのは、親ばかだろうか?
「あなたの本なんだから、いつでも、好きな時に読めばいいよ」
僕は、それでも、敢えて、もう一度、そう返した。
僕は、別に、急いではいない。既にそれは、書かれたわけだし、カタチとなって、すぐ手元にある。
とりたてて、僕には、急ぐ理由も、急ぐ必要もない。
「お父さんが買ったんだから、お父さんの本でいいんだよ」
と、娘が、尚も、僕の背中を押してくる。
そして、ダイニングテーブルの端っこに、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を、音もなく置くと、
「宛名を私にしてくれて、ありがとう。嬉しかったよ」
と言い残して、彼女は、自室につづく階段をのぼっていった。
彼女の小論文を書くために。