ソファーに座ったまま、僕はしばらく身動きもせず、じっとしていた。それは僕が感じていたよりも、ずっと長い時間だったようで、「天井裏に潜むねずみたちの囁きを、ひとことも漏らさずに聞き取ろうとしているかのようだった」と、後々に、彼女はそう言った。
(どうかしたの?)
あまりに長い沈黙に、彼女がそう尋ねたような気がする。
「いいや、なんだかね、ずっとずっと遠いどこかで、僕らに関する物語が語られているような気がしたんだ」
(あなたと私の?)
「よくはわからないよ。そんな気がしただけの話さ」
(どんな物語なのかしら?)
僕は、無言で首を振り、もう一度、
「そんな気がしただけさ」
と、繰り返した。
うん? 僕は、大事なことをすっとやり過ごして、話を進めてしまってないだろうか?
僕は、もう一度、目の前の彼女をまじまじと見た。
「君は、羊だよね?」
(………)
返事は、なかった。
「さっき、僕に話しかけなかったかい?」
(………)
やはり、返事はなかった。けれど、彼女がじっと僕を見ていた。
勿論、動物が人間の顔をまじまじと見るなんてことは、よくあることだ。犬だって猫だって、時にじっとこちらの顔を見てくることがある。頭を撫でてほしいときとか、餌のおねだりだったり、「てめぇ、噛むぞ!」という威嚇の睨みつけだったり。
しかし、その時の彼女の僕へのまなざしは、もっと親和性を感じさせるようなものだった。それは、人間が人間を見つめているような、もしくは、羊が羊を見つめているような、なんの不自然さもない親和性と言うべきだろうか。
「ひとつ、聞いてほしいんだけれど、僕は君のことを勘違いしていたようなんだ。そのことについては、素直に謝るよ」
どうやら、彼女は羊のかぶりものをしたデリヘル嬢ではないし、動物専門のアニマル系デリヘル嬢でもなさそうだった。いや、そんなことをそれほど真剣に考えていたわけではないのだけれど、ここでその線は完全に消しておきたいと思ったのだ。
「ごめん」
(………)
彼女は、相変わらず何も言わなかったけれど、
(ほんとに、男の人っていうのは仕方ないわね)
みたいな感じで、プイっと、横を向いた。
おそらく、それが彼女が ー羊がー 話すということなのだ。実際に、口を開くわけでも、言葉を放つわけでもない。しかし、それは、僕に確実に届く。
それは、すねたというよりも、ちょっと甘えたような、ほんとに(仕方ないわね)と呆れたような感じだった。勿論、彼女は僕を許していた。もしも許していないのなら、彼女はとっくに僕を噛めばよかったのだから。
「ところで、君はみずからここに訪ねてきたわけだよね。宅配ピザのそそっかしいアルバイトに捕まって、うっかり間違ってデリバリーされたわけでもない」
(まだ、デリバリーについて、あなたは未練があるのかしら?)
「ごめんごめん、そんなつもりはないんだ。わが家を訪ねてくるものなんて、宅配ピザとか、過剰梱包されたAmazonからの宅配便とか、郵便配達されるショップからのダイレクトメール等々、デリバリーされるものばかりなんだ。だから、ついつい、君も誰かがデリバリーしてきたものなのかと思ってしまったわけだよ、悪気がないのはわかってくれたよね?」
(おそらく、私があなたがすぐにでもベッドに運びたくなるような女性だったら、あなたはこの家のドアさえ開けてくれなかったでしょうね)
確かに、それは言えているかもしれない。僕は訪ねてきたのが羊だったから、家のドアを開け、羊が長い長いとてつもなく長い廊下を…、 そうだ、僕の家の廊下はあんなにも長かっただろうか? ー 羊が僕の先を歩いていくのを、引き止めもしなかったのだ。
「そんなことまで、君にはわかるのかい?」
彼女は、笑った。
その微笑みの中には、
(そんなこともわからないと思ってたの?)
という、余裕すら感じられた。
「君は僕のことがわかっているみたいだけれど、僕は君のことがさっぱりわかってないんだ」
(そうね)
「尋ねていいかな?」
(………)
「君は、どこからここへやって来たんだろう?」
(ほんとうに、聞きたいの?)
「普通、聞くと、思うよ」
(長い長い、あなたと通ってきたこの家の廊下よりもずっと長い話になるかもしれない)
僕の話し方を真似たように、彼女が言った。
「話と廊下の長さは、同じ物差しで測られるのかな?」
(時には、そうであってもいいんじゃないかしら)
「長くなるんなら、とりあえず、コーヒーを温かいものに取り替えてくるよ」
そう言って、僕は、彼女と僕のコーヒーマグを手にとって、もう一度台所に向かった。横たわる長い長い廊下を、ぴょんと横切って。