深き海より蒼き樹々のつぶやき

Sochan Blog---深海蒼樹

現代を芸術家がどう生き抜いているのかについて---会田誠の言の葉より

aburae

 きっかけは、単純に、会田誠さんの文章を読んだことだった。
 会田誠 色ざんげが書けなくて(その八)
 記事の中にもあるように、会田さんの森美術館での個展(『天才でごめんなさい』の中の、特に「犬」という作品)に対するフェミニストからの抗議といったことが話題になったのは、かれこれ1年半くらい前のことになるらしい。

 この騒動の前にも、会田さんは、「滝の絵」という、スクール水着姿の少女たちを描いた作品を発表し、話題になっていた。
 この作品は、高さ4メートルを越える大きな作品だ。厳密に資料から数字を拾うと、439x272cmの大きさらしい。
 その大きさは、美術館の壁を覆い、仰ぎ見なければいけないほどに大きく、大袈裟に言えば、その大きさだけでなんだか荘厳な佇まいを醸し出してさえいる。しかしながら、描かれているのは、たくさんの、あられもないスクール水着姿の少女たちなのだ。しかも、一見は、自分たちが水着姿であることにあまりに無頓着で、無邪気であるようにすら見える。
 しかし、その無邪気さはある地点で、反転する。
 たとえば、街角や電車内で少女たちの群れに遭遇した時の落ち着かなさ、居心地の悪さを、僕は思い出す。『見る側』にいたはずの僕が、『見られる側』に反転する。もしくは、『見る側』に立ち、少女たちを見ていた僕を少女たちに見られていた恥ずかしさのようなものに襲われ、ヘラヘラと笑っていた僕に、少女たちの少女的残虐性が、突き刺さってくるようにも思える。
 そこには、見事なまでに、『少女』が描かれている。

 と、ここで僕は、会田さんのエロティシズムやポルノ性や暴力性、差別性について述べたいわけではない。
 僕が、上にあげた文章のなかで、心を掴まれたのは、もっと別のものだ。さっさと紹介しよう。  

「芸術作品の制作は(性的であれ何であれ)自分の趣味嗜好を開陳する、アマチュアリズムの場ではない--表現すべきものは自分を含む”我々”、あるいは”他者”であるべきだ」という戒めも抱いています。

という、一文だ。
 あぁ、僕は、会田さんというのは、やっぱりプロなんだなぁと、単なるスケベなだけのおっさんではないんだと、思ったわけです。
 そして、さらに、以下の文章がつづく。

 偉そうな言葉なので僕個人はあまり使いませんが、これらの態度は要するに「批評的」と言われるものかもしれません。自分が実感できる言葉で言えば、「確固たる文化的地盤に立って安定/安心しないこと」「様々な文化的地盤を等価に観察し、常に疑いの気持ちを持ち続けること」「そういう態度から来る自身の空虚さに耐え、その代償として手に入る、自由やフレキシブルさや実験精神という武器を手放さないこと」などが、現代における芸術の条件だと僕は思っています。ちなみにこういう話は「18~19世紀あたりのヨーロッパ芸術こそ芸術」と強く思い込んでいる“自称芸術愛好家”にこそ、説明してもなかなか理解してもらえないのが悩みのタネです。

 もう一度、引用してみよう。

「18~19世紀あたりのヨーロッパ芸術こそ芸術」と強く思い込んでいる“自称芸術愛好家”にこそ、説明してもなかなか理解してもらえない

 僕は、この一文を読んで、いろいろと思い出したことがある。
 それは、音楽の世界でも聞いたような話だ。
 たとえば、Jazzにはすでにスタンダードになった名曲がたくさんあるのだから、わざわざ新しい曲を作る必要はないとか。どうせ演奏するなら、誰も知らない曲じゃなくて、スタンダードを演奏してくれだとか。(著作権の問題や印税の問題もあって、そうせざるを得ないこともあるように推測するけれど)
 クラシックだと、もっと顕著な気もする。有名曲でなければ演奏会に人は集まらないし、ヴィヴァルディ、モーツァルトベートーヴェンシューベルトショパンブラームスチャイコフスキードヴォルザーク、バッハなどなど、今更新しい曲を作らなくても演奏すべき曲はいくらでもある。
 けれど、現代にも作曲家は、いるのだ。芸術大や音楽大学には、作曲科がある。詳しくは知らないけれど、そこは、これまでに作られた曲を研究するだけの科ではないはずだ。
 あくまでも、曲を作ることが、目的ではないのだろうか。

 もしも、あなたが鑑賞するだけの立場であるなら、それでいいのかもしれない。おそらく、大きな問題はないはずだ。
 「Beatlesさえあれば、ほかの音楽はいらない」
 「エレクトロニクスに走ったMiles Davisのジャズは、最早Jazzではない」
 「ファッションは、流行っては廃っていく循環を繰り返しているだけで、なにも進歩していない」
 「最早、新しいものなんて、ない」
などなど、アマチュアとして好き勝手を言っても構わないはずだ。

 けれど、あなたが、創作する立場であるなら、どうだろう?
 たとえば、あなたが、画家であったなら。

 「すでに、絵画芸術は何世紀も前に完成していて、今更、キミが描くべきものなどなにもない」
と言われて、画家であるキミは納得するだろうか?
 キミは、画家であることをあきらめられるだろうか? そもそも、描きたいという自身の欲求を抑えられるだろうか?

 おそらく、彼ら、現代の芸術家と呼ばれる人たちにとって、もっと過酷なのは、同時代のライバルだけでなく、脈々とつづく歴代の大芸術家たちとも競い合い、戦わなくてはならないということだ。
 それは、ちょっと想像しただけでも、萎えてくる。
 いきなり、ベートーヴェンモーツアルト、ミレーやルノワールゴッホマイルス・デイビスビル・エヴァンス(saxではなくて、pianoの、あのエヴァンスだ)といった、金字塔を打ち立てた人々と戦わなくてはならないのだ。
 会田さんが言う、

自由やフレキシブルさや実験精神という武器

を手放さずに、それだけをしっかりと持って、なにものでもないゼロから、はじめなければならない。
 そして、おそらくは、そうして戦ってきたからこそ、今、会田誠という芸術家はここにいるのだ。

 そんなことを考えていると、芸術家にとっても、大変な時代なんだなぁという思いが、僕の胸の中を駆け巡った。
 18世紀や19世紀にはなかった、新しいテクノロジーを使えば、それなりに新しいものはできるであろう。
 その時代になかったものを使っているわけだから、ある意味、今はもう亡き芸術家たちに太刀打ちのしようもない。
 時に、現代の芸術家たちが、奇をてらっているように見えたり、実際に安易にテクノロジーに逃げている気もする。
 けれど、彼らは、僕が思っていた以上に、戦っているのかもしれない。
 戦わざるをえないのかもしれない。
 自身が、表現したいのなら。そうすることを、止められないのなら、芸術家であるために、彼らは戦いつづけ、そこに立ちつづけるためには、勝ちつづけなければならないのだ。
 それは、容易な闘いではない。