深き海より蒼き樹々のつぶやき

Sochan Blog---深海蒼樹

退院から4年半で、体重が10kg増えてしまった(重症急性膵炎(8)---僕の病気)

taijukei

 僕が、重症急性膵炎で緊急入院したのは、2009年の11月のことだった。
 あれから、4年半の歳月が流れていったことに、驚いてもいるし、まだ4年半しか経ってないのか、という思いもある。
 そして、なんと、昨日、退院後から数えて、体重が10kgも増えてしまったので、その記念にと、この記事を書いている。
 真面目な話、記念なんて喜んでいる場合ではないし、これ以上体重を増やすために赤飯を炊く必要もなければ、ケーキにローソク10本立てて10kgを祝う必要もない。
 このブログの数少ない読者なら、聞き秋田であろうが、いや、聞き飽きたであろうが、またしても、体重管理を真面目にしようという話である。

 僕が、4年半前に病に倒れた時の体重が、おおよそ、87kg-88kgくらいだったように記憶している。(公称もしくは自称は、86kgだったけど)
 膵炎というのは、どんな治療をするのかというと、膵臓内の炎症をなんとか元にもどすことが主眼であって、とにかく、ずっとなにも食べないというのが治療のメインになるわけだ。
 要は、絶飲絶食
 世の中に、『絶食』って言葉があることは知っていたけれど、僕は自分が病気をするまで、『絶飲』なんて言葉があることを知らなかった。

 絶飲だから、薬を飲むのだって、水を飲むことは許されない。
 では、どうするのかと言うと、点滴として体内に入れられることもあれば、水に溶かした薬を注射器に吸い取り、鼻から腸まで挿入された長い長いチューブに注入するのだ。
 まぁ、薬の注入自体はそんなにも苦しいことではなかったけれど、この長い、長い、長いチューブを入れるのがどんなに苦痛であったか。
 また、そんな長いチューブが身体に入っていることが、僕の神経をどれだけイライラと刺激したことか。
 集中治療室でも、僕は、一度このチューブを引っこ抜いてしまって、騒ぎを起こしている。
 僕の記憶は途切れ途切れで、詳しいことは覚えてないのだけれど、緊急呼び出しをくらった妻が病室に来たときには、僕は腕を拘束されてベッドにくくりつけられていたらしい。
 また、当時、僕の処置に関わった看護師さんから聞いた話によると、その行為はとてつもない危険を孕んでいたらしい。
 これも何度も書いてきたことだけれど、集中治療室のベッドで、寝返りもみじろぎも禁じられ、ひたすら病室の天井を見ていなさいと厳命されたあの1週間ほど、辛かったことはない。

 で、体重の話だった。
 ここに、体重を測った記録が残っている。
 2009年の12月5日から、2010年の3月10日までの記録だ。

 

weight

 記録が、12月5日から始まっているのは、それまでは病室から出ることすら許されていなかったからだ。12月5日は、入院後、ちょうど3週間が過ぎた頃にあたる。
 体重測定は、ナースステーション近くにある体重計で行われるのだけれど、色々とチューブがつながった僕は、そこまで歩くことすらできず、車椅子に乗せられて毎日そこまで運ばれていた。
 80.4kgということは、3週間の絶飲絶食を経て、それなりにはすでに体重が落ちてはいたのだ。けれど、それ以降も、体重は面白いように落ちていった。食べていないのだから、落ちるしかないと言えば、ないのだけれど。

 その後、まずは、絶飲が解かれた。水か、所謂、スポーツ飲料なら、飲んでいいと言われたのは、それから間もなくだった。しかし、僕は、500mlのペットボトルを飲み干すのに、2日以上を要した。
 まさに、その頃の僕は、舐めるように水を飲んでいた。ひと口、口をつけては離す。ゴクリと飲み下すのが怖くて、口に含まれるのは呆れるほどに少量だった。
 後日、ヤクルトが配られたときも、朝食で飲みはじめたヤクルトを飲み干すのは、ちょうど午後3時くらいだった。僕の体は、飲むことも食べることも忘れていた。そして、不思議と飲みたいとも、食べたいとも思わなかった。
 ただ、甘みを感じたいという欲求はあったように思う。

 12月の後半からは、絶食が解かれた。と言っても、ご飯粒がまったく入ってないような、お粥の汁だけといったものから、それはスタートした。
 固形物は、なかった。ピューレされた、緑色のなにかが、僕の体に刺さっていたチューブから出て行った体液にそっくりで吐きそうになったけれど、吐くものが、僕の体の中にはなかったので、幾度もカラ嘔吐を繰り返した。
 そして、退院直前の、1月14日に最初のピークがきて、体重は、73.3kgまで落ちた。自称の86kgから差し引いても、13kgの減になる。

 一時的に体重が増えるのは、自宅に帰ってホッとしたからにほかならない。
 食べようと思えば、いつでも、食べることができる環境にかえってきたのだ。病院のように、時間にならなければ食事が提供されないなんてことはない。自分のペースで、生活を送ることができる環境にやっと戻ってきた安心感からか、体重は少し増えた。
 そして、僕は、毎日毎日、蒸し野菜とうどんばかり食べていた。
 わずかな量の食事を摂るのにも、長い時間がかかった。まだまだ、僕は、食べることが怖かったのだ。
 うどんを1本1本食べていた。その言葉に誇張がないどころか、1本をすするのが怖いので、1本すら何度も何度も歯で切って短くして食べていた。
 それだけゆっくり食べていれば、途中で満腹にもなる。
 そんなわけで、また、体重は落ちはじめたいった。

 食べた時は増えて、食べなかった時は減る。そんな一進一退のような体重の増減が繰り返された。職場復帰も果たした。そうそう、ゆっくりとご飯も食べてられない。下手をすると食べ終わらないうちに、休憩時間が終わってしまう。
 そうこうするうちに、2回目のピークが来たのが、3月の9日だ。
 体重は、72.4kgになった。
 そして、僕は、体重の記録をとるのをやめている。
 どうして、記録をとるのをやめたのか、はっきりとした記憶が僕にもない。
 ただ、面倒くさくなったんだろうか?
 そんな気もするし、思い出したくないなにかがあったようにも、思う。しかし、思い出したくないのなら、無理に思い出す必要もないだろう。

 繰り返して言うが、あれから、4年と少しが経ったことになる。
 このブログでもなんども書いているように、現在の僕は、ほとんどのものは食べられる。いや、なんだって食べられると言ってもいいだろう。
 ありがたいことに、前回の診察でも、インシュリンは、なぜか正常に出ていた。なぜ正常に出ているのかは、主治医にもわからないし、いつまでそれが正常に出るのかについてもわからないと、主治医は言った。
 「それにしても、体重は、増えすぎだ」と、主治医は、眉をひそめるのも忘れなかった。
 昔の僕を知る人々は、やっと健康になってきたなと、どちらかと言えば喜んでくれているようでもある。
 しかしながら、喜んでいいことではないのだ。
 とりあえず、今月中に70kg台には戻さねば。

膵、見えずー重症急性膵炎(9)—僕の病気