深き海より蒼き樹々のつぶやき

Sochan Blog---深海蒼樹

祈るくらいはさせてくれって話

 21時を過ぎた頃のことだった。つい数時間前に、「また明日」と元気に挨拶をして帰っていった部下から、勤務中の僕に緊急の電話がかかってきた。
 彼女は努めて冷静に事態を受け止めようとしているように思えた。もしくは、急展開の出来事にただ圧倒されて受け入れざるを得なかったと言うべきか。

 「自宅で倒れて自力で救急車を手配しました」
 「今は〇〇病院にいます」
 「状況は思った以上によくないようで、これから1時間後に緊急の手術を受けます」
 「昔の深海さんのように、何本も管が刺されてます」
 「もしも何かあったときは、深海さんに連絡がいきますからご迷惑ですがよろしく」
 「わかったから、とにかく手術がんばってこい」
 そのときは、それだけで終わった。これから緊急手術を受けようとしている者に、電話で根掘り葉掘り聞く道理もない。おそらく、本人ですらよくはわかっていないはずだ。かつての僕がそうであったように。

 電話を切ったあと、咄嗟には聞けなかった疑問がいくつも頭をよぎる。
 倒れたっていうのは、転倒ってことなのか、意識がなくなったということなのか。
 手術っていうのは、整形外科的なケガをしてしまっての手術なのか、脳外科とか心臓外科とかケガではなくて一般的な病気に対する手術なのか、さてどっちなんだろう?
 管が何本も挿さってちゃあいけないじゃないか。「まるで昔の深海さんのように」っていうのはなおのこといけない。だって僕はそのとき死にかけていたんだから。
 搬送された病院が彼女のかかりつけでなかったことや、当直医が整形外科である病院ではなく内科担当である病院が選ばれていることなど、いろんな情報を集めてみるけれどはっきりとしたことはわからない。
 こんな夜分遅くにと思いながらも、ひょっとしたら今もその病院で働いているかもしれない昔々の部下に電話をかける。緊急手術の内容をどうにか知ることはできないかと。しかし、それは無理だった。しかも彼女はすでにその病院から転職していた。

hospital

 仕事を無事に終えた僕は、従業員駐車場に停めてある自分の車に乗り込み、少しだけ考えたあと病院へと車を進めた。
 コロナがあって以来、病院は面会や来院への制限を設けるようになった。年に4回、今でも通院をつづけている僕もそのことは知っている。また、看護士と医師との権限についても明確化される傾向にある。「看護士の私には答えられないので医師に聞いてください」些細なことでも、看護士は答えるのを控えるようになっている。責任問題を懸念してなのか、権限分担の厳格化なのか、僕には知る由もない。
 ダメもとでも、とにかく病院に行ってみようと思った。僕が通院している病院がそうだからと言って、今夜彼女が搬送された病院がそうだとは限らないことを願って。

 それともうひとつ、僕が彼女の搬送された病院に行こうとした理由があった。恥ずかしいくらいにアナログな理由だ。もしも今彼女が受けている手術が命に関わるような手術であるなら、少しでも彼女の近くでその無事を祈りたいと思ったのだ。ごくごく単純に素直に。
 車を運転しながらバカな考えだとも思った。祈る場所に意味なんてあるんだろうか?
 いや、そもそも、祈り自体に意味なんてあるんだろうか?
 誰かが祈ろうが祈るまいが、ダメなときはダメなんだ。それもわかってるつもりだ。誰かが死んだのは、誰かの祈りが足りなかったせいなんかじゃない。
 けれど、僕は祈りたいと思った。かつて、病院の灯りも少ない駐車場で祈ってくれた人がいたように、僕も誰かのために祈りたいと思った。僕がそうしてもらったように、僕も誰かにそうしたいと思った。祈りの意味を問う前に。