さて、前回の終わりの部分で、2008年に「東大合格生のノートはかならず美しい」という本が、よく売れたという話を簡単に書いた。
そのおかげでと言うべきか、それを踏まえてと言うべきか、新しいノートが生み出された。
それは、ノート界における、久々の大きな出来事であるように、僕には思えた。
それが、ドットノートだ。ドットノートという言い方は、よろしくないんだろうか。僕は、略して、そう呼んでいる。
では、略さない正式名称はというと、ドット入り罫線ノートとでも呼ぶべきだろうか。
こんな感じである。
前回書いた、行頭揃えも、これなら簡単だ。しかも、実線ではないので、そんなに目障りではないよね?
ん? 目障りでない? 本当に?
いや、実に、目障りだ!と、感情的に結論づける前に、僕は少し考えることにした。
たとえば、思い出してみよう。携帯電話やスマホを機種変更したとき、以前と違った表示や操作に、ついつい、前の機種の方がよかったと、思ってしまうことはないだろうか?
新しく買い替えたものの方が、ずっと便利なはずなのに、それに慣れるまでは結構イライラしたり、「こんなの全然よくない!」と以前のスマホをいと恋しく思ってみたり。
だから、僕は、冷静に考えようと思った。このドット入り罫線についても。
そうだ、これは、単に慣れの問題なのか?
確かに、便利ではある。行頭揃えだって、パソコンのタブ揃えのように行の途中からだって、うまく揃えることができる。
その便利さについては、素直に認めよう。
しかも、正方形だって、簡単に書くことができる。
以前は、正方形にならなかったのだ。
いったい、なんの話なんだと思ったあなた、こんな経験はないだろうか?
正方形の横の線を、ノート上部にある目盛り4つ分とし、正方形の高さにあたる縦の線を、いわゆる行を4行分として四角形を作っても、正方形にならないじゃないかぁ、っていう経験のことだ。
僕は、中学生の頃、数学の図形を描こうとしてこの事実に気づき、半端ない、裏切られた感をもったウブな中学生のひとりだ。
しかし、現在のドット入り罫線ノートでは、このドットで囲まれたひとつひとつが正方形なのだ。よって、横に4つ縦に4行分で囲んでいくと、当たり前のことだけれど、それもまた正方形なわけだ。
逆に言うと、つまり、昔は、上部の横の目盛りと、罫線の幅は同一ではなかったということだ。
さて、そろそろ、冷静になってきたし、もう一度、ドット入り罫線ノートを見なおしてみよう。
うん、ひとつ気づいたことは、文字が書き込まれたあとのノートは、思いのほかドットが気にならないということだ。
と感じたので、なにも書き込まれていない、言わば、真っ白なページを見てみると…、?
目障りだ。
せっかく、親切なドットを入れてもらいながら、誠に心苦しく、申し訳ないのだが、なんだかやっぱりダメなのだ。
ドットが、目障りで仕方ない。
なんだか、気が散るのである。
今回、現役女子高生である娘にも、ドット入り罫線ノートについて意見を求めたところ、
「私、あれは苦手なんで使ったことないんだよね」
のひとことで、久しぶりの父娘の会話は、アッという間に、終わってしまった。
あぁ、やっぱり娘も、苦手なのか、と、妙に血のつながりを意識した場面ではあったのだけれど、彼女がなにをもって苦手としているのかは不明である。
次の会話の際には、尋ねてみよう。