深き海より蒼き樹々のつぶやき

Sochan Blog---深海蒼樹

『素数の音楽』(マーカス・デュ・ソートイ著)を読む

musicofprimes

 僕自身、数学が苦手なことについては、福田は考えるまでもなく、補助線を描いて、ニッコリと笑ったという記事で、以前にも書いた。しかし、苦手だから嫌いかと言われると、そうではない。逆に、好きというか、憧れていると、言える。
 しかし、微分積分も理解できなかった僕に、『素数』と言われても、やはり困ることは困る。

 その数字が、素数かどうかを、数学の授業以外の時間に真剣に考えたことなんて、ただの一度もない。
 と言うよりも、僕らが日常生活のなかで接しているのは、それは、単なる『数字』なのだ。あくまでも、僕的には。
 決して、数学に敏感な人々が感じるように、『数字が存在する』というような考え方で、数字を捉えることはない。これもまた、あくまでも、僕的には、だけど。
 どっぷり文系の僕からすれば、『言葉が存在する』とか、『言霊』というのは、感覚的に受け入れやすいし、既に、受け入れている。
 しかし、『数字が存在する』と言われても、うまく受け止められないし、ピンとこない。おぼろげながら、その考え方は、『言葉が存在する」と感じる感覚の、数学的感覚なんだろうかと、思うだけだ。

 素数は、代数の原子である。

 素数をこんな風に語られて、うんうん、その通り、なんて、僕に思えるはずがない。だったら、そんな本を無理して読む必要なんてないんだけれど。というよりも、そもそも、無理だろ?って話なんだけれど、数式で書かれているならば僕もあきらめるけれど、それが言葉で書かれている以上、変に頑張ってしまう。それが、誤解と思い込みの元だとは、重々わかってはいるのだけれど。

 つづけよう。  

素数は、代数の原子である。それより小さな数の積では表せない数を、素数と呼ぶ。

 少し、わかってきたよね。
 

たとえば13や17は素数だが、15は3X5と書けるから、素数ではない。

 なんとなく、思い出してきただろうか。
 しかし、この後につづく文章で、僕は一気に突き放される。
 

数学者が何百年にもわたって探ってきた数の宇宙、無限に広がるその宇宙のあちこちにちりばめられた宝石が、素数なのだ。

 ここまででも、随分と数学者を遠くに感じているのに、更なる追い打ちがかけられてくる。
 

数学者にとって、素数は驚くべき存在だ。2,3,5,7,11,13,17,19,23...時を超えたこれらの数は、現実世界とはまったく独立した世界にある、自然から数学者への贈り物なのだ。

 いやぁ、もう、どう転んでも、ムリ。『素数が、自然からの贈り物』だなんて、そうそうは思えない。そんな風に感じられない。

 数学において、なぜ素数が重要なのか。

 うん、なぜ、そんなものに、数学者は、こだわるのだ?
 

それは、素数を使えばほかのあらゆる数が作れるからだ。

 あっ!ちょっと、わかった気がする部分がある。だから、『素数は、代数の原子である』と、言われるわけだ。
 でも、それが大事なのはわかるけれど、そんなに特別に大事なんだろうか? 別に、どうでもいいんじゃないの? 少なくとも、僕的には、そう思うんだけれど、数学者たちにとっては、それは最重要なことであると同時に、素数の出現を予想できないことは、許しがたいことでもあるらしい。

 いわゆる、素数定理リーマン予想と言われたりするものだけれど、本書の中にも指摘されているように、フェルマーの最終定理の証明よりも、素数定理の方が、断然面白いであろうことは、想像がつく。こんな、僕でも。
 だって、フェルマーの方程式に解がないことを証明することより、素数がどういう規則性をもって存在するかを証明できた方が、楽しい。
 ないことを証明するよりも、あるものを証明する方が、単純に想像しても楽しいと思う。
 勿論、僕のこの勝手な想像と解釈が正しいかどうかは、心もとない。しかも、素数定理リーマン予想というのが同義でないということを、さっき知った。付け加えると、『同義でない』という言い方が正しいのかどうかも、僕には、心もとない。
 自分でググってみるか、下記のWikipediaを参照あれ。
 素数定理
 リーマン予想

 では、素数は、どんな風に出現、もしくは、存在するのか?  

2 3 5 7 11 13 17 19 23 29 31 37 41 43 47 53 59 61 67 71 73 79 83 89 97

 これが、100までの素数らしい。もう少し、見たくなっただろうか。
 

101 103 107 109 113 127 131 137 139 149 151 157 163 167 173 179 181 191 193 197 199 211 223 227 229 233 239 241 251 257 263 269 271 277 281 283 293 307 311 313 317 331 337 347 349 353 359 367 373 379 383 389 397 401 409 419 421 431 433 439 443 449 457 461 463 467 479 487 491 499 503 509 521 523 541 547 557 563 569 571 577 587 593 599 601 607 613 617 619 631 641 643 647 653 659 661 673 677 683 691 701 709 719 727 733 739 743 751 757 761 769 773 787 797 809 811 821 823 827 829 839 853 857 859 863 877 881 883 887 907 911 919 929 937 941 947 953 967 971 977 983 991 997

 100から1000までの、素数だ。
 頭が痛くなってきたのは、僕だけだろうか? 多分、僕の目は、137くらいで、早くも数字を追うのをやめてしまっている。
 僕には、ランダムな数字の羅列だとしか、感じられない。この中に規則性を見出そうなんて、僕は、考えることすらないだろう。たとえ、無人島でひとりぼっちで、死ぬほど退屈で何もすることがなくても。

 そして、意地悪くも、本書にはこんな記述がある。  

...ここで、1000万を中心に前後100の幅をとって、そのあいだにある素数をあげてみよう。まず、1000万より小さいほうから。  

9,999,901 9,999,907 9,999,929 9,999,931 9,999,937 9,999,943 9,999,971 9,999,973 9,999,991  

ところが、1000万から1000万100となると、  

10,000,019 10,000,079

のふたつだけで、極端に少なくなる。

 だから、規則性なんてないで、いいじゃないの? と、僕なんかは、早々と結論づけてしまいたいし、いやぁ、数字って不思議だなぁで、まったく困らないわけなんだけれど、数学者と呼ばれる人々はこれを許すことができないらしい。

 しかも、数学者たちにとっては、素数というのはどこまでも特別なものであるらしい。もう一度言うけれど、たとえば、317が素数であるかないかなんて、今までの人生のなかで僕は考えてみたこともない。そして、誰かが、317は素数なんだよと、僕に教えてくれたとしても、僕はおそらくその話に耳を傾けることもなくスルーするだろう。もしくは、機嫌が悪ければ、「だから、なに?」と、尖った声をあげるかもしれない。

 G.H.ハーディーのように、  

317は、われわれが素数だと考えるから素数なのではなく、われわれの精神の形成とは無関係に、素数だから素数なのだ。数学的実在は、そのように作られている
なんて、熱くなられても、たぶん、『数学的実在』なんて言葉に、僕はうまく反応できない気がする。

 にもかかわらず、僕は、そんな自分に不向きな本を敢えて読もうとしている。
 話は、かわるけれど、僕には霊感がない。だからなんだ、って?
 僕には、霊感がなくて、霊的なものが見えるはずもないのだけれど、では、霊感があって霊的なものがくっきり見える人たちを羨ましく思うかというと、そうは思わない。それは、別に見えなくてもいい。自分も見たいとか、見えなくて悔しいとは、思わない。
 だけど、数学者が、数字を存在すると感じること、数字から声を聞き、数字からなにかを読み取れることを、僕は羨ましく思うし、嫉妬すらしてしまう。
 正直に言うと、この本を読んだとしても、おそらく、僕にはわからないことだらけだろう。それは、サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」を読んだときもそうだったし、ポアンカレ予想を解いたとされる、グリゴリー・ペレルマンNHKのドキュメンタリーを見たときもそうだった。
 にもかかわらず、僕は、彼らの何かに触れたいと思ってしまう。彼らの数学的、何か的な、何かに。

 317は、われわれが素数だと考えるから素数なのではなく、素数だから素数なのだ。

 勿論、僕は、317という数字にこだわっているわけではない、彼らが力強く、素数だから素数なのだと言い切る、人間存在を超えたところに絶対で永遠な現実が存在するというようなプラトン的な世界観に、もしくは、必ず解か証明があると信じ切れる彼らの力の謎に、触れてみたいのかもしれない。

 どうやら、数学者たちは、彼らが数学を作っているとは考えていないようだ。彼らはただ、自然というものを、存在する世界を、数学で描写しているだけだと思っているらしい。僕にはそれがとても不思議に思える。