いまさら言うまでもなく、僕は、数学とういものが苦手だ。
それは、試験の点数を見れば明らかではあったのだけれど、でもそこは努力が足りないせいだとか、たまたま教え方がマッチしてないだけだとか、そういった可能性もあるような気がしていた。
しかし、中学3年生の夏休み前、僕は、図形かなんかの問題を解こうとして、自分に数学は無理だと悟った。
それは、三角形と四角形の図形が、微妙に重ねられていて、ヒントのように一部の辺の長さや、ある部分の角度を記したうえで、
- 辺A-Bの長さを求めよ
- C角の角度を求めなさい
- 三角形DとEの面積が同じことを証明せよ
とか、そんな雰囲気の問題だ。
放課後の教室で、僕は、問題集を開いたまま、呆然としていた。
なぜ、放課後にわざわざ問題集を開いていたのかは、覚えていない。
ただ、その時に、やや大きめな前歯が可愛いとクラスで評判の福田がやってきて、
「帰らへんの?」
と、僕に声をかけた。
そして、机の上に開かれた問題集に気がつく。
「どれが、わからへんのん?」
福田は、頭がいい。もしくは、頭も、いい。
「この図形のやつ」
福田が、僕の後ろにやってきて、背中越しに問題集をのぞきこむ。
「その、なにが、わからんの?」
「とりあえず、この辺とこの辺の長さは一緒でええのん?」
肉眼で見るかぎり、それは同じ長さに見えた。だが、僕には、そう見えるというだけで、確証はない。それを証明できないのだ。
僕が指さした問題集の図形をよく見ようと、僕の顔すれすれのところを福田の顔が通った。シャンプーの香りと、決していやではない微かな体臭が、一瞬遅れたように通りすぎていった。
「なんで? 簡単やん」
難問を前に、ピクリとも動かなかった僕の手に握られていた鉛筆を、福田はかっさらうように奪うと、図形の横の空間に点線を書き加えた。
そして、
「ほら」
と、言って、鉛筆を問題集の上に投げ出した。
そう、福田は、補助線を書き加えたのだ。
補助線とは、幾何学で、与えられた図形にはないが、証明のために便宜的に描き加えられる線
のことだ。
確かに、補助線が書き加えられて、新たに生み出された図形と照らし合わせてみると、『この辺とこの辺が同じ長さであること』が、くっきりと、自明のことのように明らかになっていた。
「これで、わかったやろ?」
ニッコリと、福田が、笑った。
それに引き換え、僕の顔は、凍りついた。
「どうしたん? まだ、わからへんの?」
僕は、
「いや、わかったんは、わかったよ」
と、一応は前置きしたうえで、こう言った。
「でも、わからへんことがあんねん。なんでここに、補助線を引こうと思うん?」
僕の言葉をとらえたあと、福田が、困ったという顔をした。
「なんでって、おかしなこと言うなぁ。これを引かんと、問題解かれへんやん」
たぶん、いや、きっと、福田の言うことが正しい。それは、その時だって、わかっていた。
だけれど、福田にこうして補助線というものを見せられても、それがどこからやってくるのか、僕には見当もつかなかった。
そして、自力で僕がその補助線を引いている姿を、僕自身、想像すらできなかった。
この時の福田のおかげで、僕は、図形の問題の時には必ず補助線について、思いを馳せるようになった。勿論、残念ながら、正しい補助線が引かれることは、ほとんどと言っていいほどなかったけれど。
「時々、むつかしいこと言うなぁ」
と、福田が、もう一度笑った。
「むつかしいことなんて、なんも言うてへんわ」
と、言い返したかったけれど、福田の彼氏が、教室の入口でじれったそうに福田を待っているのが見えたので、やめた。
「ほら、みんなで帰ろうな」
福田は、どこまでも無邪気に、そう言った。
僕は、問題集を鞄にしまい込みながら、福田が補助線を書き加える時に、無意識に無邪気に僕の肩に置いた手のひらの感触を思い出していた。