とある友人の書き込みで、思いもかけず「姥桜」という言葉のほんとうの意味を知った。
元来、「姥桜」は、葉が出るよりも先に花が咲く桜の俗称だという。そもそもの植物学的には。
それはそれで植物学的にはまぁそういうことなのかなってことなのだけれど、一般的に「姥桜」というのは女性を悪く言うときに使う言葉だと僕は思ってきた。
・若かりし頃はきれいだったけど、今は年老いて美貌を失った女性のこと
・年甲斐もなく、女であることをことさらに強調するような、「老女」のこと
・わかりやすく言えば、みっともないエロばばあのこと
まぁ、年甲斐もなくいつまでも自分は女の盛りでいるような勘違いした女性を、馬鹿にするというか、揶揄するようなときに使うのが「姥桜」という言葉だと思ってきたのだけれど、どうやらそれは間違いらしい。しかも180°の間違いらしい。
ここで思い出したのが、「情けは人のためならず」という言葉だ。元々は、情けは人のためにするものではなく自分のためにするものだという意味だったのが、情けをかけたからといって(その)人のためになるとは限らない。場合によっては、情けをかけたがために逆効果ということもある。みたいな意味に転化していった話。
「姥桜」という言葉も、時代が変わるとともに元来の意味とはまったく反対の意味になってしまった言葉のひとつのようだ。
姥桜という言葉ができて以来時が過ぎるとともに、従来の「桜」という美しさを表す言葉よりも、「姥」という年老いた状態を表す言葉の意味の方に重心が移り、徐々にその意味を逆転していった。
では、「姥桜」の、本来の意味とは?
実は、娘の盛りが過ぎてもいつまでも美しく色気の残っている女性のことを、「姥桜」と言うらしい。
桜が大好きな僕としては、「姥桜」の本来の意味がいつまでも美しい女性のことだと知ってうれしい。女性の醜さを表す言葉ではなく、美しさを表す言葉であったことに、大袈裟に言えば安堵すら覚える。
最後に、花が散ったあとの桜の楽しみ方を付け加えておこう。桜の花が散り果てて花見をしたことすら忘れた頃に、もう一度桜のことを思い出し、その木を見上げてほしい。きれいだきれいだと誰もに褒めそやされる可憐な桜もいい。けれど、誰にも見られてもいないのに健気に緑の葉を茂らす桜の姿も、野性的で生命感にあふれていいものです。