深き海より蒼き樹々のつぶやき

Sochan Blog---深海蒼樹

『風の歌を聴け』の第1章について

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 村上春樹は、『風の歌を聴け』の翻訳を、許可していない。厳密に言えば、はるか昔、『風の歌を聴け』は日本国内で英語に翻訳され、出版・販売された。しかし、その後、村上春樹はその英語版の海外での販売を許可していない。
 その理由は、村上春樹にとって『風の歌を聴け』は、彼の小説としての及第点をクリアしていないと、彼が判断しているからだ。もっと言えば、そのデビュー作は、小説の態をなしていない。と、彼は思っているのだろう。

 しかしながら、『風の歌を聴け』という小説は、いい作品だ。と、少なくとも僕は今でもそう思っている。
 確かに、『風の歌を聴け』は、物語という面から見れば、村上春樹が言うように、稚拙でつまらないストーリーなのかもしれない。そこには、Seek & Findもなく、明らかになっていく謎も、再生の物語もない。
 はっきり言おう。『風の歌を聴け』は、紡がれた物語ではなく、選び抜かれた言葉の羅列と蓄積なのだ。そこに提示されたものは、物語ではなく、イメージだ。言葉そのものの肌触りや舌触り、その言葉が紡ぎ出すイメージの響き。そこに、物語はない。いや、そこには、厳密に定義される言葉も、ない。もしくは、意味さえも無にするための周到な言葉があると言い換えようか。

 『風の歌を聴け』の第1章は、こう始まる。  

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

 そして、延々と、書くことや、今から読者が読むであろう物語についての言い訳が綴られていく。そう、延々と。
 この第1章は、丸々すべてが言い訳で綴られている。よくできた言い訳であり、初めての小説を書こうという若かりし日の村上春樹を思うとき、僕はこの第1章を読むたびに、深い感銘を覚えずにはいられない。そして、この文章を書いていたであろう青年村上春樹の姿を思い浮かべて、僕の心は震える。ここにいるのは、『作家』になる前の、村上春樹なのだ。
 書くという行為に惹かれながらも、書くことが怖くて仕方ない村上春樹。書くことについて、自分が書いたものについて、延々と言い訳せずにはいられない村上春樹。  

夜中の3時に寝静まった台所の冷蔵庫を漁るような人間には、それだけの文章しか書くことができない。
 そして、それが僕だ。

 『夜中の3時に寝静まった台所の冷蔵庫を漁るような人間』が書く文章とは、どんな文章だろう? 『それだけの文章』とは、つまらない文章なのだろうか? しかし、勿論、『それが、僕だ』と言いながらも、『それだけの文章』が、どんな文章なのかを、村上春樹は語らない。決して、つまらない、ひどい文章だとは、言わない。そう、それは、自信と自信のなさを垣間見せる、狡猾で、卑怯な言い回しだ。
 本当に、『それだけの文章』なら、彼は、『風の歌を聴け』なんて小説を書かなければいい。少なくとも、本気でそう思うなら、『群像』の新人賞に応募する必要すらないはずなのだから。

 書くことは、ただ、書くだけなら、それはとても個人的な行為である。しかし、書いたものを公開・発表するということは、ある意味においてとても恥ずかしい行為であり、自分が発した言葉によって定義付けられ、評価されることは、どれほどに恐ろしいことだろう。
 自分がいいと思って紡ぎ、選んだ言葉を、他者はまったくもって振り向きもしないかもしれない。勿論それは、彼の人格を否定するものではないし、人間的な不適格を宣言するものでもない。ただ、つまらない文章であり、くだらない小説だという、それはあくまでも書いたものに対する評価だ。
 そう考えながらも、村上春樹は、『風の歌を聴け』という、生まれて初めて書き、新人賞に応募した小説の冒頭に、この延々とつづく言い訳を書きつらねずには、物語を始めることができなかったのだ。

 どうでもいい話だけれど、僕は、時々、書くことがとてつもなく苦痛になったとき、自分を励ますためにこの第1章を読むようにしている。
 村上春樹ですら、これだけ恐れおののき、くどくどと自分に言い聞かせるように言い訳をしているのだ。そう思うと、僕ごときがどんなひどい文章を書こうが、気にしなくていいような気持になってくる。
 もしも、僕が、村上春樹にアドバイスできるような立場になれたなら、僕は真っ先にこの第1章だけでも翻訳を許可するべきだと訴えるだろう。この第1章が、世界中の『書く人々』をどれだけ勇気づけ、励まし、慰めることか。