どうでもいいことを、好きなように覚え書きしておきたいという衝動が抑えきれずに、書きはじめた。
何度も言うように、これは個人ブログなのだから、僕の好きなように書けばいい。
タイトルでツル必要もなにもないのだ。
カクノという子供向け万年筆を買って以来、なんだか万年筆が心地いい。その囚われように、自分でも、驚いている。
間違っても消せるフリクションにどっぷり浸かっていたというのに、今では、間違ったらどうしようとビクビクしながらも、万年筆を使っていたりする。その緊張感のせいか、今のところ、ひと文字も間違っていない。
不思議な感じがする。フリクションは依然として僕の傍にたくさん転がっているのだけれど、それを使わない生活に戻ったわけだ。かなり大げさな言い方だけど。
すると、消せるということがあんなに画期的だと思えたフリクションが、ひょっとしたら、なくてもいいのかな、くらいの気分になっている。
それは、僕が気づく範囲において、今のところ書き損じてなくて、消したいという場面に行き当たってないというのが、決定的に大きな要因ではあるけれど。
『まぁ、間違ってもいいかな』
というか、
『間違ったら、間違ったで仕方ないよな』
くらいの気持ちになっていたりする。
不思議なもんだ。
きっと、大雑把な僕は、近いうちに、なにかの書き損じを起こして、呆然とする場面が出てくるだろう。
そして、そのときには、今書いていることを忘れたかのように、
『やっぱり、フリクションにしとけばよかった』
と、思うかもしれない。いや、きっと思うに違いない。
にもかかわらず、僕は、今手にしている万年筆をフリクションに持ち替えようという気が、ない。
もう一度、言う。
不思議なもんだ。
筆記具ひとつで、こんなにも僕が変わっている。
勿論、間違いは、よくないことだ。できれば、それがたわいもない間違いにしても、できればしたくないし、間違ったまま放置しておきたくもない。
きちんと正しく修正しておきたいし、自分のミスを、できるものならば、なかったものとして処理してしまいたいとも、思う。
なのに、万年筆を使うようになって、少しだけ、ほんの少しだけ、考えが変わった。
間違いは決していいことではないけれど、間違うことは仕方ないよな、ということだ。すごくシンプルなことで、とりたてて大騒ぎするような大発見でもないのも、わかっている。
ただ、僕自身は、久しく忘れていたなにかを、思い出したような感覚があるのも事実だ。
間違っていれば、直せばいい。間違わないように、気をつけることは必要だけれど、間違ってしまったことを必要以上に恥じることも取り繕うことも、ましてや、隠ぺいすることもない。
たとえば、それは、極々私的な僕だけの手帳なわけだし、上から取り消し線を引いて書きなおしておけば、こんな書き間違いをしてたんだと、それはそれで読みなおした時にわかって面白いかもしれない。
ただ、それだけのことだ。
ただ、それだけのことのような気がしてきた。
『なら、間違ってやろうじゃないか』
くらいのところまで、行ってしまいそうなくらい。
1000円ばかしの、子供向け(小学生向け)、初心者用万年筆で、こんなにも楽しめるとは、思ってもいなかった。
そして、小さなひとつの筆記具が、僕の日常を変えようとしていることも、改めて、不思議な気がする。
そんな、今日この頃です。