深き海より蒼き樹々のつぶやき

Sochan Blog---深海蒼樹

なにかを成し遂げたいなら---才能、情熱、持久力、好きという感情---僕になかったもの

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 またしても、どうでもいい話を書こうとしている。そういう自覚は、まだしっかりともっているつもりだ。これから書こうとしていることが、自分にとっても他人にとっても、さほど有意義なものでないことは、多少なりともわきまえているつもりだ。
 だったら書かなくていいじゃないかという話でもあるんだけれど、まぁまぁそう言わずに書くだけでも書かせておくれよ、っていう気分ではある。なんせ、月に1本の更新すらままならない状況であり、下書きだけは多少溜まっていくものの、成果物としては全然仕上がってないものだから。

 で、僕は、ふと考えた。
 なんでこんなにも、いろんなことがうまくいかないんだろうか?
と。
 勿論、人生に絶望しているとか、今日を乗り越えられないくらいに生活が窮しているとか、そういう深刻な話ではない。深刻ではないけれど、根の深い話ではある。
 少なくとも、僕自身が、いろんなことがうまくいってないと感じている。もしくは、今現在の自分のありようを、こんなはずではなかったと思っている。
 自分だけがひどく不幸だとは思っていない。にもかかわらず、僕は、今の自分が思っていたところに到達していないことにモヤモヤとした不満というか、消化不良感のようなものを感じている。そういう状態からの脱却なり脱出を試み、努力していないわけではないのにだ。

 だいたい、今年の誕生日ー僕は早くも52歳になったーはたと、僕は思ったのだ。今の自分に、自信を持って得意だと言えることってなんだろう? なにもないんじゃないか、と。
 いや、それとはちょっとニュアンスが違う。これまでの人生、楽器や自転車、スポーツ、プログラムや音楽、作文、いろんなことに手を出してはみたものの、なにひとつ長続きもせず、これと言ってものになったものもない。じゃあ、いったい、僕はなにが得意だったんだろう?
 なにに手を出せば、プロ並みか、いっぱしのレベルに達することができたのだろう?

 まぁ、正直言って、50歳を越えて言うようなセリフではない。なにに手を出せばって、好きなことに手を出せばいいのだ。これまでだってそうしてきたはずだ。まぁ、そうしてきた結果が現状であり、だからこそ、じゃあなにに手を出せばよかったのだろう? というセリフにつながっている。見事なまでの堂々巡りなわけだ。
 簡単に言えば、
 『才能』だけで楽してと言うか、最小限の努力と労力で『成功』できるようなものはなかったんだろうか?
ということである。
 かなり身勝手な話だ。苦労を苦労とも感じず、そのことをやり遂げる情熱と好きという感情を維持しつづけられる『なにか』がなかったんだろうか? だって?
 おそらく、『なにか』に対して僕が溢れる『才能』とやらをもっていたとしても、その『なにか』にまったく関心がなかったり、好きでないものだったら、僕はその『才能』をいとも簡単にドブに捨てたことだろう。いや、気づかないうちに、僕はそうやって生きてきてしまったのかもしれない。

 ということは、僕はなにごとにも一定の壁を乗り越えられずにきてしまったということだ。もしくは、壁を越えられなくても、それが好きだからそれをしていられればいいと開き直れるくらい好きなものを、見つけられてこなかったということかもしれない。
 なにも、プロ並みのレベルに達しなければいけないとか、そうならなければ楽しめないわけではないはずだ。
 目的はなんなんだろう? プロ並みになることなのか、それとも『なにか』を楽しみたいということなのか。またしても、堂々巡りだ。いや、袋小路と言うべきだろうか。

 振り返って思うに、決定的に欠如していたのは、『持久力』だ。
 なにごとにも『持久力』は大事。
 『持久力』とは、昨日までの成長を今日につなげることであり、それができるからこそ、成長はまた昨日から今日、明日へとつながっていく。
 と、わかってはいるんだけれど、それがうまくできないままきてしまった。努力と労力は、プツリプツリと分断され、成長につながるどころか、死屍累々、いつしか細切れな無駄な努力と無駄な労力となり果ててしまってきた。
 というわけで、結論は、『持久力』が大事ということに尽きる。
 言っておくけれど、安易に、『才能』に頼ってはいけない。『才能』がないのに、『才能』があればなぁと、ないものねだりしても意味がない。
 だから、ね。
 『持久力』が、大事。