深き海より蒼き樹々のつぶやき

Sochan Blog---深海蒼樹

凍てついた夜に

 そろそろと、本格的な冬になろうとしている。勿論、そんなことは日本全国共通なことではあるのだけれど、僕が住んでいる此の地では、本格的な冬というのは、雪を意味する。
 そして遂に、此の地でも、朝方には、うっすらと2cmほどの積雪があった。そのせいか、夜は夜で、いたるところで凍てつきがはじまっていた。

 昨夜のことだった。10時を過ぎて会社を出ようとすると、駐車場に置いた車のフロントガラスが寒さで凍てついていると、誰かが教えてくれた。フロントガラスが凍てつくと、フロントガラス一面が白く凍りつき、前がまったく見えなくなる。
 そのままで車を出すわけにはいかないので、暖房を入れて、温風を車内からフロントガラスに吹きつけ、凍てつきが溶けていくのを待つしかない。少なくとも、5分。早く帰って、家で温まりたいと思いながらも、待つしか仕方がない。

 『凍てついてるから、ペットボトルにお湯汲んでいけばいい』と、別の誰かが言った。
 凍てついたフロントガラスには、お湯をかけるのが一番手っ取り早い。これがもっと寒さが厳しくなって気温が下がると、一旦溶けたものがまたすぐに凍りついてしまうのだけれど、今夜の気温ならまだ大丈夫だ。
 ありがたい忠告に、2リットルのペットボトルにお湯を入れていると、1本では足りないと、誰かが言い出した。そんなに、ひどい凍てつきなんだ。ヘタをすると、路面も凍っていて、革靴の底ではツルツルと滑ってあぶないかもしれない。
 2本めのペットボトルにお湯を注いでいると、さらに、親切な人がやってきて、
 『いやいや、2本でも足りないですよ。ドアだって凍りついてるから、お湯をかけたほうがいいです。でないと、無理やり開けると、ゴムを傷めますよ』と、言った。
 結局のところ、僕は、お湯を満タンに入れた2リットルのペットボトルを、3本用意した。いくら手が大きな僕でも、それに加えて、鞄も持つとなると、全部を持つのは容易ではない。しかも、足元もツルツルに凍てているかもしれないなら、できるものなら、手は自由にしておきたいくらいだ。

 仕方がないので、1本を鞄に入れて、鞄を斜めがけにした。そして、手には1本ずつペットボトルを持ったら、傘を持つ手がなくなった。
 はぁー、と、軽くではあるが、ため息が出た。
 これから、こういう毎日がつづくんだよな、という思いも込めたため息だ。
 今は大して降ってるわけではないし、傘はロッカーに置いて帰ることにした。
 暖房器具のまったくないロッカールームは冷えていて、無骨でシンプルなそのロッカーの金属の部分に触れると、それだけで一気に体内の温もりを奪われそうな気がした。まだ、12月だと言うのに。

 思ったよりも、外は寒くなかった。
 僕は、2本のペットボトルを大事に抱えて、駐車場までの道のりを進んだ。おそらくは、とても不格好な姿で。
 特に、駐車場の入口のところでは、用心した。冬場には凍てついて、ツルツルどころか、ツルッツルッになって、何人もの犠牲者を出してきたところだ。凍てつきというのは、厄介なもので、目に見えにくく、気づきにくい。雪ならば、そこに雪があると思って、誰だって避けて通るなり、事前に警戒もする。しかし、凍りついた路面は、暗い夜だけではなく、珍しく見せた晴れ間の昼でも、気づきにくい。
 まるで、イタズラを通り越して仕掛けられた、巧妙な罠のように。もしくは、誰かの、秘められた悪意のように。

 駐車場の奥に停めた自分の車を探して、ゆっくりと僕は歩く。夜の10時をまわっているので、残っている車も大した数ではないのだけれど、知ってる人は知ってるだろうが、僕は、車に詳しくない。中学生の時に、スーパーカーブームの洗礼を浴びた世代ではあるのだけれど、それは世代の話だ。僕自身は、その洗礼も受けず、いまだに、スーパーカーの名前と言えば、『カウンタック』くらいしか思い浮かばない。『カウンタック』の前に、なにやら付いた気もするけれど、定かでない。『ボラギノール』でないのは、確かだ。『ボラギノールカウンタック』いや、わかった。『ランボルギーニ』だ。今日は調子がいい。
 というわけで、僕は、自分の車をよく間違う。特に、夜は暗くてシルエットしか見えないので、とりあえず、黒い車だと自分の車だと思ってしまう節がある。
 深夜に、キミの車のドアを引っ張って、『あれ?なんで開かないんだ?』とブツブツ言っていたら、それは、車上荒らしではなく、僕だ。しかも、キミの車が黒なら、ほぼ100%僕だ。別に、キミの車の中にある何かを盗ろうなんて思ってるわけではない。僕だって、早く、自分の車に辿り着きたいし、ただの一度だって、開けようとした車が自分の車ではなかったからといって、腹いせにキミの車のホイールキャップを蹴り飛ばしたりはしていない。
 ただの一度もだ。
 大事なことは3回言うのが、今年のトレンドらしいので、もう一度、言おう。
 どんなに疲れていて、その日がどんなに最悪の一日であっても、ただの一度も、だ。

 やっと自分の車に辿り着いた僕は、まずは、車のドアの縁にお湯をかけるため、手にしたペットボトルのうちの1本のペットボトルのキャップを開けようとして、もう1本のペットボトルを派手に落とした。それは、まるで最初からそう予定されていたかのような、見事な落としっぷりだった。
 拾いあげるのも面倒に思えて、路面に転げたペットボトルのことは、しばらく忘れておくことにした。
 ドアノブに手をかけて、開いてみると、ドアはなんの抵抗もなくスッと開いた。それは、いつもより軽く感じられるくらいで、僕を驚かせた。知らず知らずに、ノブを引く手に、いつも以上に力が入っていたのかもしれない。
 足だけを車内に滑り込ませて、ブレーキペダルを踏み、ボタン式のスターターを押す。わずかな一瞬、息を吸い込むような間をあけた後、エンジンが吠えた。これで、つけっぱなしの暖房も始動したはずだ。
 たっぷりと残ったお湯を、フロントガラスにかけると、みるみると凍って白くなったフロントガラスが透明に戻っていく。氷がひび割れていく時の、ペキペキといった音もしなかったので、思ったほどの凍てつきではなさそうだ。ペットボトル1本で、十分にこと足りてしまった。リアやサイドの窓にも、余ったお湯をかけた。

 2リットルのペットボトルを入れた重い鞄を助手席に置き、運転席に座ってワイパーをかけると、いつもの夜の駐車場の風景だった。
 暖房と同じく、つけっぱなしのCDプレーヤーが、深夜に迷惑にならない程度の音量で、Jamiroquaiを流してくれる。
 車を出して、3秒後、僕は、路上に落としたままのペットボトルを思い出す。あの面倒くさいペットボトルだ。しかも、2リットルのでかいペットボトル。500mlのペットボトルだったら、なにかがかわったのだろうか?
 僕は、車を止める。そのペットボトルが、500mlであろうと、2リットルであろうと、ヤクルトサイズであろうと、面倒臭さも、そして、僕がそれを拾い上げるために車をもう一度止めることも、なにもかわらない。

 シートベルトをはずして、僕は、車の外に出た。
 さっきまで車がいた、白い線で囲まれた四角形の外に、そのペットボトルはあった。車の後輪で、踏まなくてよかった。
 ペットボトルの飲み口の下のくびれに指をかけて、僕は、それを提げた。そのついでに、空を仰ぎ見ると、わずかな粉雪が不器用に風に舞っていた。

 "It's my life"

 それは、僕が放ったものなのか、誰かが放ったものなのか、それとも、通り過ぎる風の音がたまたまそう聞こえたのか、僕にはわからない。

 "It's my life"

 さぁ、今夜は、これで、帰ろう。