従業員食堂で夕食を食べながら見たテレビは、甲子園を騒がせた高校球児の特集をやっていた。そこに早実で甲子園を沸かせ、その後はヤクルトに入団した荒木大輔氏が出演していた。ぼくより一歳下の彼は甲子園を懐かしみ、今でも甲子園は自分にとって特別な場所でもあることを語ったあとに、「あの時のあいつらともう一度野球がしたいですね。あの時のあいつらとだからいいんです」みたいなことを言った。
そのひとことに大きくうなずきながらも、ぼくには少し意外にも思えた。ぼくのようにほぼほぼ高校時代にしか競技をしてこなかった人間と、小学生時代にリトルリーグから野球をはじめてプロ野球まで競技をつづけた人間では、選択の幅が違いすぎる。なのに同じことを思っている。
ぼくは高校時代はサッカーをやっていた。Jリーグなんてプロサッカーが日本で生まれるなんて思いもしなかった世代、日本がワールドカップに出場するなんて言葉にすれば現実を知らなさすぎるとバカにされた世代だ。それでも全国大会への予選参加校は野球よりも多かった。野球部がない高校はあるが、サッカー部がない高校はないと言われていた。十分な広さのグランドがなかったり、道具に金がかかるといった理由から、野球部がない高校は思いのほか多かった。
そんな負け惜しみを並べたところで、時代は完全に野球が主流だった。リトルリーグから高校野球、プロ野球まで。高校野球には毎日新聞朝日新聞が主催する甲子園大会がある。『甲子園』とは、関西の一部の人々を除けば、高校野球の甲子園のことだった。(『甲子園』と言えば阪神タイガースという異論はもちろん認めるが)
ぼくたちのチームは決して強くはなかった。けれど弱くもなかった。もうひと息といったところにいる数多のチームとも言えた。なんせ時代は野球だったし、サッカーに対する情報なんてものも極端に少なかった。(三菱提供の「ダイヤモンドサッカー」は、毎週海外の試合を放送してくれたが、前半と後半を2週に分けての放送であったし、厳密に言うと30分の放送枠に収まるように編集されたダイジェスト版であった)(古河からドイツのケルンでプロ選手となった小野寺さんが、ウイングではなくてサイドバックになったということの意味も理解できていなかった。ぼくらはドイツのレベルが高くて小野寺さんはFWからバックスに下げられたんだと解釈していた。そうだ、あの時代は今よりももっとバックスよりもFWの時代だった。ちなみに書いておくと、ぼくはスイーパーという今ではありもしなくなったバックスの最後列だったんだけどね)
ほぼ毎日部活といって練習をし、週末の土曜日とか日曜日を使って練習試合や公式戦が組まれる。(ちなみに、ぼくらはまだ土曜日は午前中授業があった世代だ。学校に週休2日制が持ち込まれるのははるか先の話だ)雨でグランドが使えないときは、校舎内を走り回ったり筋トレと称して腕立てや腹筋やスクワットをやる。ただサッカーは足さえ鍛えればいいという時代だったし、上半身を鍛えたかったり筋力を全身につけたいやつはラグビー部にまかせていた。今思えば雨の日の筋トレはおざなりなもので、休養日に近いものだった。
そんなチームも、2年生の夏、私学大会といって大阪の私立の高校だけで行われた大会でベスト8まで勝ち進む。といえば快進撃を思い浮かべるかもしれないが、勝ったのは2回だけだ。ただ夏休み前、期末試験を終えたばかりのまさしくクソ暑いなか行われるこの大会にわざわざ参加してくる学校は、それなりには真剣にサッカーに取り組んでいる学校ばかりだった。バイクに乗ってグランド集合してくるような学校はないし(普通の大阪大会予選では普通にあった)、その当時の私立高校といえば大抵は男子校だったので黄色い声援なんてものもまったくない。しかも会場は日陰が一切ない淀川の河川敷。勝つと翌日に次の試合がある。ぼくらは勝った喜びにしばし浸ったあと、またここに明日も来なければならないことに打ちのめされた。そんな大会にわざわざ出てくるのだから、そんな高校ばかりだ。
もっとも気合が入っていたというか、入ってなかったというか、全国大会レベルの北陽は学校が同じく淀川沿いということもあって、通常の練習の合間に試合に来ていた。しかも、走って。
何を言っているのかわからないと思うので、もう少し説明しよう。彼らは自分たちの北陽高校グランドでの練習を抜けて、大阪工業大学附属高校近くの淀川河川敷のグランドに試合をしにくる。電車に乗ったりなんらかの交通手段を使うよりも、最も手っ取り早いのは淀川の河川敷を走るということになったのだろう。彼らはかけ声こそかけないものの、きちんと隊列を組んで走った。その隊列の見事さもさることながら、最後列のサブの選手2名が、空の大きなヤカンをロープでたすき掛けにして走っていく姿が印象的だった。日陰もないグランドで試合を行い、もちろん勝って彼らは帰っていく。この後もまた自身の高校で練習をするために。何度も言うように一糸乱れずと呼んでいいような見事な隊列を組んで走って帰っていく。
勝てるはずがないと言って監督すら所用で同行しなかった初日の試合を勝利で終えたぼくは、そのうしろ姿をすごいなと思って眺めていた。そして、2日目の試合をPK戦までもつれたとはいえ勝利したぼくは、そのうしろ姿を半ば呆れて見つめていた。明日勝ったらまた明後日もここに来なければならないのか?しかも来るだけじゃなくて試合をするのだ。日陰ひとつないこの河川敷のグランドで。
正直に言おう。もう明日は負けていいよな、と、ぼくは思った。キャプテンのぼくがそう思ったくらいだから、チームメイトも全員がそう思っていたはずだ。そしてぼくらは予選3試合目でボロボロに負けた。
学校に走って帰っていく北陽の最後列のやかんが、夏の日差しを跳ね返すようにひときわ光っている。もう明日はこの姿を見ることもない。ただ、彼らは明日もここに来るんだろうな。クソ暑いのにかわいそうにという気持ちと、負けてもいいと思いながらもうらやましいという気持ちを、どう消化させていいのかわからなかった。
高校を卒業したのち、何度もあのときの試合やあの頃の自分たちを振り返ることがあった。「もっと中盤のスペースを埋めるべきだった」「バックラインをもっと上げないと」「いやそれもわかるけど、前線も早く戻って守備もしないと」「簡単にボールを失うから上がってる時間がなかった」などなど、それぞれの立場でそれぞれの意見が噴出する。実際の試合では試合中にもかかわらず大声で味方を怒鳴り合い、時にはレフェリーにたしなめられたりもした。
が、卒業後に得た知識を駆使してあの頃のチームを評価していくのは楽しかった。そしてまた悔しかった。なぜあの頃このことに気づけなかったんだろう?なぜあの頃お互いのポジションを理解し合えなかったんだろう?
あの頃に戻りたいと思った。あの頃のチームでもう一度戦いたいと思った。あのメンバーのままもう一度サッカーがしたいと切に思った。
あれからさらに30年ほどの歳月が過ぎた。もう全力で走ることさえままならない身体であることは認める。時間なんてものが取り戻せないものであることも重々に思い知らされてもきた。それでも時折、またあいつらとサッカーがしたいという、言葉にしてもどうしようもないことを思うことがある。
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学生の頃に買ったのは、『族長の秋』だったかな。
『百年の孤独』がなんと50年以上経ってからの文庫化