深き海より蒼き樹々のつぶやき

Sochan Blog---深海蒼樹

たとえそれが冷蔵庫の説明書であってもーー理想の文章について

 ブログをはじめて、8ヶ月が過ぎ、2013年としては半年が過ぎたことになる。
 先月は、ありがたいことに、月間のページヴューが1000pvを越えた。突然、訪問とページヴューが増えた一番大きな要因は、テレビ番組の『世界ふしぎ発見』でフィッツジェラルド特集が組まれたおかげだ。その番組では、その妻であるゼルダフィッツジェラルドについても取り上げられ、僕のブログを訪れる人の大半は、GoogleやYahooで、「ゼルダフィッツジェラルド」と検索をして、僕のブログに辿り着いてくる。  (2013年7月1日現在、「ゼルダフィッツジェラルド」で検索すると、F.スコット・フィッツジェラルドWikipediaゼルダ・セイヤーのWikipedia、そして、僕のゼルダ・フィッツジェラルドについて(2)が、3番目に表示される)
 どうして、そんな検索結果になるのかは、僕にだって納得できていないし、説明することもできない。たまたま、なんだか知らないけれど、そうなってるんです、としか言いようがない。そして、僕の頭の中にはいつも『過大評価』という言葉が浮かんでいて、誰にともなく申し訳ないような気分でいるのも確かだ。

 月間1000pvなんて、大した数字でないことはわかっている。しかしながら、僕にとっては、大きな意味をもつ。それまでは、500pvすら越えたことがなかったし、検索エンジンから辿り着いてくるなんてことがほとんどなかったのだから、この意味は大きい。
 リアルな知り合いでも、facebookの知り合いでもなく、まったく僕の人となりを知らない人が、僕の文章を読んでいることになるからだ。  書き手に関する一切の情報もなく読むということは、ひたすら、文章だけを読まれているということになる。その文章を補完するような人柄も、生い立ちも、現状も何もない。
 たとえば、学校の「作文」を思い起こしてほしい。担任の先生や国語の先生は、それが「僕の作文」であることを知った上で、その作文を読むわけだ。そして、社会人になった僕の、不得手な社内研修のレポートや報告書にしたって、多くの場合は僕を知った人たちが読んでいるにすぎない。そこには、先入観や偏見もあれば、あきらめや容赦もあるはずだ。
 たかだか、1000pvであったとしても、僕は、と言うか、僕の文章は、かつてないほどに容赦なく読まれたことになる。

 そして、つくづく思ったのが、検索してやってきた人たちは、ゼルダフィッツジェラルドに関するものしか読まない、ということだ。勿論、立場が変わって、僕が誰かのブログを訪問するときだって、同じようなことをしている。「ゼルダフィッツジェラルド」について調べたくて検索をし、誰が書いたブログかなんて気にもとめずに、ヒットしたブログを開いてみただけのことだ。開いただけで、1行も読まずに、『これは違うな』と判断して、閉じることだってよくあることだ。
 そんな風に、1行も読まずに閉じられたのなら、それは、それでいい。その人が探していたのは、単なるバイオグラフィーだったかもしれないし、著作リストが見たかったのかもしれない。

 しかし、数行でも僕の文章を読んだ上で、途中で読むことをやめたのなら、それは、僕の文章の責任だ。
 ゼルダフィッツジェラルドについて(2)だけを読んで、文末に設置された続編へのリンクをクリックしなかったとすれば、明らかに、僕の負けではないんだろうか?
 勝ち負けを持ち出すのは、いささか、自意識過剰で、大袈裟に過ぎるだろうか?
 もしくは、続編を読んだとしても、ゼルダフィッツジェラルドについての記事しか読まずに立ち去ったとしたら、どうだろう?勿論、読み手にだって、読み手の事情があるだろうし、なにを探していたかということにもかかわってくる話ではある。しかしながら、ここは、、ハードルを、高くあげよう。

 僕のブログにやってきて、それが、どの記事であってもかまわないのだけれど、ほかの記事も読みたいと思ってもらえないということは、やはり『負け』てる気がしてならないのだ。
 なぜなら、僕は、ゼルダフィッツジェラルドについての見識を披露したいわけではない。ゼルダについて語り、思うところや、伝えたいものがあるのは事実だけれど、内容よりも、まず見てほしいもの、読んでほしいものは、この文章にほかならない。
 そんな魅力的な文章が、簡単に書けるなんて到底思ってないし、僕にそんな実力があるとも自惚れてはいない。しかし、それでも、なお、僕は憧れずにはいられない。

 それがたとえ冷蔵庫の説明書であっても、読んでいて心地よくて、ついつい最後の一言一句まで漏らさずに読んでしまうような文章。最後まで読んだとしても、それは冷蔵庫の説明でしかないとわかっているのに、最後のページに辿り着きたくないと思うほどに、心のどこかをグリップして放さない文章。

 あまりにもハードルをあげ過ぎて、そのハードルの下をくぐり抜けられそうなくらいなんだけれど、勇気をもって書きつづけるために、以前、『風の歌を聴け』の第1章についてでも書いた、あの文章を読んでこよう。