深き海より蒼き樹々のつぶやき

Sochan Blog---深海蒼樹

文字になり、カタチになるまでは、それは単なるアイデアにすぎないという話

メモパッド&ペン

 先日というか、今月のはじめに、3日つづけてこのブログの更新をして、4つの記事をアップした。スケジュール的には、午後から休み、午後から休み、終日休みという風に、時間的余裕があってのことではあったのだけれど、なんだかすっかりと僕の頭は書く体勢に入っていて、仕事の合間を縫ってでも、次の記事が簡単に書けそうな気がしていた。
 その反面、4つも書けて、3日もつづけて更新ができて、かなり安堵したのも事実だった。頭の片隅では、これで、しばらく書かなくてもいいだろう、という安心感だ。

 自分がやりたくて、好きなことを書きたくて、はじめたブログなのに、いつしかブログに急き立てられるような日々になっている。
 僕のブログが、1ヶ月更新されることがなくても、別に問題がないことは、重々僕もわかっている。わかってはいるのだけれど、なんだかすごく焦るのだ。やらなければいけないことを、ずっと放置しているような、さぼっているような、そんな後ろめたい気持ちになる。

 3日つづけて更新したあとの、4日目の朝。僕は、いつも通りパソコンの電源を入れて、エディタを立ち上げた。勿論、なにかを書くために。
 そして、3日つづけてジョギングをしたり、ウォーキングをつづけた人の体がそうであるように、僕の体も、すっかりと書くことへの準備ができていて、少し書きはじめればすぐに調子に乗れそうな気がした。しかし、最初の1歩が、いや、実際には最初の3歩くらいは出たのだけれど、パタリと足が止まった。そして、止まったら、なんだか動きたくなくなってしまった。
 体は、汗をかいて走る自分の爽快感をきっちりとイメージできているし、これから感じるであろう風の気持ちよさまで想像できるというのに、あの坂道をのぼるときの足の重さだとか、ダラダラとつづく直線の道の退屈さだとか、いつしか、負のイメージのほうがまさってしまって、1歩も動けなくなる。

 1日さぼると、2日目は更に大儀になって、エディタすら起動していない。だって、3日もつづけて更新したんだし、しばらくは休んでもいいよな、と、すっかりと言い訳モードに入ってしまっているし、仕事帰りの疲れた頭で、すでに、書ける気すらしない。
 そんなこんなで、時間が過ぎていき、休日を迎えても、やはり大儀ぃなぁ、なんて思ってる。そろそろ書かないとまずいよな、とは、Sakura Internetからのレンタルサーバーの更新請求書が届かなくても、感じている。いや、実際には、請求書が届いたんだけど。

 こんななまくらな僕だって、1日中、少しの時間を見つけては、頭の中で、あれこれと文章を練っていたりする。でも、これまでの経験で、いくら頭の中で考えても、実際に書かないことには文章が生まれてこないことを、僕は身をもって知っている。頭の中で綴られるのは、それが一言一句明確な言葉であったとしても、実際に文字としてかたちになるまでは、アイデアにすぎない。
 頭の中では、すごくいい文章だったにもかかわらず、文字にしてかたちになった文章は、見るも無惨、読むも無惨なシロモノだったなんて経験は、掃いて捨てるほどなんていうなまやさしい慣用句では言い尽くせないほどに、経験してきている。

 だから、書くしかないのだ。頭の中にアイデアすらないよりは、あった方が、気持ちとしては楽に決まってる。けれど、アイデア固執すると、命取りになることだってままある。
 ときには、そのアイデアのために書き出した文章であっても、そのアイデア自身を埋没させるか、捨て去るしかない。それを見極めるためにも、書くしかないのだ。書いて、文字にして、自分で見て、自分で読まないかぎり、それはまだ文章ではない。

 それとも、こんな風にしか思えないのは、僕が未熟なせいで(自分が未熟であることは、よーくわかっているんだけれど)、こんなことを繰り返しているうちに、書けるようになるんだろうか? つまりは、頭の中の言葉と、実際に書かれたときの言葉との、温度差とか齟齬がないように、頭の中で完成型をイメージできるようになるとか。

 その答えが正しいのか正しくないのかを知りたいなら、いや、ほんとうはそんなことどっちでもいいにしろ、とにかく書くしかないわけだ。  僕が書くことに意味があるとかないとかということとは、まったく別のものとして、書かなければなにもない。書けばなにかがある、とも、僕は言わない。書いたってなにもないかもしれない。この文章が、まさにそうであるように。しかし、書かなければ、ほんとうに、なにもないのだ。ただ、それだけのことだ。