つい先日、人が倒れるところを、目の前で見た。その倒れた人からみて、左前方45°くらいのところに、僕が立っていたことになる。
その人が倒れたのは、病気だとか、たとえば、脳溢血とか心筋梗塞でパタリなんて深刻なことではなく、出入り口に敷いてあった靴ふきマットのめくれに足をとられて、倒れたというよりは、倒れこむように派手にこけたのだった。
性別は、男。180cm近くはあろうかという、決して太ってはいないけれど、大柄な体型だった。しかし、年齢は、55歳以上。日頃から、運動をしているようには見えないタイプの人だった。
この人が、足元をすくわれたように、見事に、バーンと前のめりに倒れた。
倒れたその刹那、大理石の床に埃が舞ったように思えたくらい、見事に、バーンって感じで、まさに絵に描いたような、漫画に出てくるようなこけ方だった。
その人が、足元をマットのめくれにとられた瞬間から、床に見事にうつ伏せに倒れるまで、見事なほど、その人は、なんの抵抗もせず、ただただ倒れていった。
倒れまいと踏ん張ろうとする努力の欠片すら見せなかったし、なんでもいいから、何かにすがろうとして伸ばした手が、残念ながら空を切るなんていう、あがきやジタバタもなかった。
その人は、素直なままに、前のめりで倒れていった。
こういう場合、時には、巻き込み事故に発展する場合がある。
その位置で倒れていればよかったものの、踏ん張ったがために、倒れる位置が余計に伸びてしまって、とんでもないものに(たとえば、更に勢いをつけてガラスに)突っ込んでしまい、大事故になる場合。
踏ん張って、倒れるまでに時間ができてしまったがために、周りの人が差し伸べた手が間に合ってしまい、その人に引っ張られるように巻き添えの二重・三重事故に発展するケース。
よくあるのは、倒れまいとして、なりふり構わず、なんにでもしがみつこうとしての巻き添え事故だ。
しがみついたものが、その人の勢いのついた体重を支えられるはずのない、か弱い婦人や老人といった場合もある。
もしくは、それは掴んではいけないだろうっていう、高価な花瓶や、滅多にはないと思うが、飾ってあった西洋の鎧にしがみついて、大きな音とともに倒れ込むことになることもある。
一度だけだが、結婚式場の前の、なんの凹凸も落下物もない廊下でつまづいて、花瓶に活けてあった花にしがみつこうとして、そのまま倒れてしまった友人の姿を見たことがある。
黒い礼服に身を包んで、片手に赤いバラを3本ほども鷲掴みにして倒れていく様は、ある意味、感動的ではあったが、ある意味、これからはじまる披露宴の華々しさを思うと、妙に悲劇的な演出に見えなくもなかった。
僕の目の前で倒れた身長180cm近く、日頃から運動不足だと推測される55歳以上とおぼしき男性は、そのこけ方の派手さとは逆に、倒れたあとは、すっくと自力で立ち上った。
こういう場合、人に見られていたのが恥ずかしくて、恥ずかしさから一刻も早く逃れるためにも、急いでその場から立ち去りたいという心境になる。
だから、僕らも、落ち着いて、どこか痛いところはないか、怪我はないかと、何度もその人に声をかけたのだけれど、その人は、至ってなにごともなかったように、スタスタと、時折、自分の足をすくった靴ふきマットを恨めしそうに振り返りながら、歩いていった。
かれこれ、35年くらい前、まだ日本でサッカーがメジャーなスポーツではなかった頃、僕は、楽しみにしていたダイヤモンドサッカーという番組を見ていた。
その番組は、海外クラブチームの試合や国際試合を、放送してくれるものだった。勿論、それはリアルタイムなはずもなく、録画された試合を、しかも、1試合を、前半と後半の2回に分けて放送していた。厳密に言えば、放送時間は30分しかなくて、その頃も、サッカーの試合は、45分ハーフだったので、編集によって15分以上がカットされていたことになり、録画放送というよりはダイジェスト放送だったことになる。
「いまは、えらく派手に、アピールするような倒れ方でしたね」
と、実況のアナウンサーが、皮肉まじりに言った。
「あー、でも、あれは、あれでいいんですよ。あの方が、怪我をしないんです」
と、解説の元サッカープレーヤーが、答えた。
「そんな悪質なファウルには見えなかったんですが、あれでいいんですか?」
「無理をせずに、ファウルを受けたときには、全身の力を抜いて倒れてしまう。変に力をいれて踏ん張ろうとするよりも、その方が、怪我をしなくていいんです」
「そういうものなんでしょうか?」
「海外のプレーヤーが、あれだけファウルを受けてもあまり怪我をしないのは、彼らは、ファウルの受け方を知っているからなんです。とにかく、全身の力を抜いて倒れること。これが、倒れるコツというか、怪我をしないための倒れ方なんです」
僕も、そう思う。
もしもあなたがなにかにつまづいたり、足がもつれることがあったら、その時は、倒れまいと踏ん張るよりも、全身の力を抜いて上手に倒れることを選んだ方がいい。