さて、久々の更新だけど、前回の話は、覚えているだろうか?
そう、ダニエル一家と一緒に、シドニーのサーキュラー・キーからフェリーに乗って、僕らはタロンガ動物園を目指したのだった。
思い出してくれたなら、いい。ダニエルというのが、僕らが勝手につけた架空の名前だってことも。
しかしここでまた、前置きを長々と書いていると、いつものごとく話があらぬ方向に進んでいきそうなので、さっさと本題に入ってしまおう。
えっ? 挿入写真が、なんで、カモノハシではなく、パンダなんだって? いや、目ざといなぁ。でも、今の、読者の声は、聞こえなかったことにして、先を急ぐことにしよう…。
結論から言うと、僕らは10分足らずで、無事にタロンガ動物園がある島に着いた。僕のイメージなり、記憶としては、それは島だったように思うんだけれど、島ではなく対岸に着いたということだったんだろうか? その辺りの地理的なことは、よく理解できていない。
前々から言っているように、僕は、折り紙つきの方向音痴だ。しかも、島根県が鳥取県の左側に位置していることを、確信をもって答えられるようになったのは、鳥取県にほど近い、現住の兵庫県北部に引っ越してきてからのことだ。
だから、細かいことは、とりあえず、いい。無事にタロンガ動物園に着ければそれでいいのだ。カモノハシが見られれば、それで、いいのだ。ただ、それだけだった。
あの時、僕が一番心配していたのは、僕らが訪問したその日が、カモノハシの定休日にあたっていないかということだった。
『カモノハシの定休日』なんて言うと、あなたは奇異に思うだろうか? それは、僕の、かつての苦い経験に基づいている。
昔々、パンダブームというのが、日本にあったことを、知っているだろうか?
1972年、時の首相、田中角栄氏と周恩来氏のもと、日中国交正常化が実現され、その記念にと、中国からパンダが2頭贈られ、東京の上野動物園で飼育されはじめた。
そのパンダたちは、ランランとカンカンと名づけられ、その愛くるしい姿とともに、一大パンダブームが日本で巻き起こり、その姿をひと目見ようと、動物園のパンダ舎前は、連日大騒ぎだった。
確か、当時のテレビニュースによると、パンダの檻の前で立ち止まることが、禁止されていた。とにかく、ゆっくりでも、前に前に進まなければならない。人々は、パンダに視線を釘付けにしたまま、前も見ずに、歩いていく。誰かが少しでも立ち止まると、拡声器で、「止まらないでください」と、叱られていた。
それから、3年近く経った頃、1975年の春、僕の家族は、僕の小学校卒業記念という名目で、大阪から東京見物旅行に行くことになった。父親が、なにを思ったのか、突然にそう決めたのだ。
父親には、小学校を卒業したら、記念に富士山に登るぞ、と、前々から言われていた気もするのだけれど、苦しい思いをして登山よりも、可愛いパンダの方が、いいに決まってる。今なら、ブームも落ち着いて、ゆっくりと、見られるに違いない。
しかも、山なんて、家の近くにいくらでもあるし、それよりも、テレビでしか見たことのない、大都会、東京だ。ひょっとしたら、天地真理とか、山口百恵に会えるかもしれないとまでは、さすがに思わなかったけれど、スターたちと同じ空気を吸えるんだと思っただけで、12歳の僕の胸は、痛いほどに高鳴ったものだった。
しかしながら、新幹線で東京駅に着いた僕らがまず目指したのは、東京タワーでも、上野動物園でも、浅草でもなかった。
なぜだか、僕らは、その日、日光東照宮を目指していたのだ。電車の窓から見えていた都会らしい高層ビルの姿が、どんどん消えていく。そして、ついには、車窓から見える景色が、大阪の田舎で暮らしているのと代わり映えしないようなものになっていくのを、僕は寂しいような、残念な思いで眺めていた。
だって、日光、って、まぎれもなく、栃木県だよ。明らかに、埼玉すら、通り越している。さっきも書いたように、僕は、地理に弱いし、方向音痴ではあるけれど、そういうのは、皮膚感覚的に、わかる。
そこで、あらためて調べてみたら、日光東照宮まで、新宿か浅草から電車に乗って、2時間。
東京や東京近郊に住んでる人なら、ちょうどいいくらいかもしれないけど、僕らは、その日、大阪の片田舎から出てきていた。
自分の家から東京駅までで、すでに、最低でも5時間くらいはかかってるはずで、そこから、さらに、2時間。
乗り継ぎかなんかの、東武鉄道のとある駅で、父親が、「えらい遠いとこまで行かなあかんねんなぁ」と、路線図を見ながら思わずぼやいたのを、はっきりと覚えている。
おそらく、父親は、知り合いの旅行業者に、丸投げで旅行を頼んだのだと思う。詳しい要望なんて、伝えてないはずだ。そして、きっと、旅行業者の説明も、ほとんど聞いてないと思う。
「とにかく、新幹線で東京に行って、どっかに泊まって、あとは適当に東京見物して帰ってくるわ」
って、感じだったんだと推測する。
もしくは、その時もなにかの思いつきで、
「日光東照宮って、遠いんか? 行ってみたいんやけどなぁ」
なんて、余計なことを言ったのかもしれない。
そして、旅行業者も、きっと適当に、
「いや、東京からなら近いもんですわ。ほなら、泊まりは、鬼怒川温泉なんてどうでっか?」
なんて、言って、
「ほなら、それでええわ、まかせるさかい、あんじょうしといてぇな」
ってことで、話がついたような気がする。いや、きっと、そうだったに違いない。
そんなわけで、小学校を卒業したばかりの僕と、3歳違いの妹は、鬼怒川温泉なんていうとっても渋い温泉地に泊まることになったのだけれど、宿のことや温泉地のことは、まるっきり覚えていない。
ただ、この旅行以来、鬼怒川温泉にも、日光東照宮にも、おそらくは栃木にも行ったことがないので、ある意味、貴重な経験になっているのは間違いない。
特に、東照宮が徳川家康を祀ったものであることと、薬師堂の内陣天井に描かれた鳴龍の下で、何度も何度も手を打って、その反響を繰り返し試したことを、強く記憶している。
左甚五郎の作と言われている、国宝の『眠り猫』を見た記憶は、あるような、ないような感じで、どちらとも自信をもっては答えられない。その当時、宮内では一部修復工事がされていて、すべてを見られたわけではなかったのは、覚えている。
ちなみに、左甚五郎の読み方は、「さだごろう」じゃなくて、「ひだり じんごろう」又は「ひだ じんごろう」だから、間違いのないようにね。諸説はあるものの、江戸初期の伝説的彫刻職人だ。諸説あると言うのは、彼の作とされるものを時系列に並べると、300年くらい生きていたことになってしまうため、その実在を疑う声もあるし、「左甚五郎」というのは、個人の名前ではなくて、腕のいい彫刻職人の代名詞的に使われていたとも言われている。
それにしても、またしても、話が、逸れている。
ここで、正直な告白タイム。
今回は、これ以降も、具体的なカモノハシの話は、出てこない。いつものことながら、ほんとうに、ごめんなさい。
今回を最終話にしようと思って書きだしたのは、紛れもない事実である。そのことは、信じてほしい。でも、ここへ来て、それが叶わぬものであることが、はっきりとわかった。だから、カモノハシの話が読みたかった人は、とりあえず、その期待は肩からおろしてほしい。勿論、ここで読むのをやめたっていいし、カモノハシのことはあきらめて、読み進めてもらえたら、なお、いい。
敢えて、言えば、今回は、『キミは、ジャイアントパンダを見たか?』なのだ。では、つづけよう。
翌日は、上野動物園に待望のパンダを見に出かけた。わざわざ、栃木県の鬼怒川温泉を出発して、片道2時間以上をかけて。
なんだか、この移動時間というのが、今振り返ってみても、すごく無駄でもったいない感じがする。どっちにしても、1泊2日の旅で、東京に出るしかないのはないにしても。
この鬼怒川温泉ー東京間の行程について、僕にはなんの記憶もない。多分、エピソードとして記憶に残るような出来事もなかったんだろうなと、僕は、推測する。
そのせいか、僕の記憶は、鬼怒川温泉から、いきなり、上野動物園の入場口前につながってしまう。
それは、テレビでいつも見ていた、あの上野動物園の入り口だった。
名作、『かわいそうなゾウ』の、あの上野動物園。
日本で唯一、パンダがいる、上野動物園。
その園内に入った途端、僕は、妹の手をひっぱるようにパンダ舎を目指して、ズンズンと歩いて、いや、最早、走っていた。
母親が、僕の名を呼んだ気もする。
父親が、「勝手に行くな」と、怒っていたような気もする。
でも、僕は、もう止まらなかった。おそらく、僕の顔には、すでに笑みが浮かんでいたことだろう。あの、ジャイアントパンダが、見られるのだ。その近くには、レッサーパンダがいることも、『小学5年生』とか、そういった類の雑誌で読んで知っている。
でも、僕が見たいのは、あの白黒のジャイアントパンダなのだ。そして、やっと、僕らは、その、本物のジャイアントパンダを、この目で見られるのだ。
そして、見る前から嬉し涙が流れるほどの、感慨もひとしおのなか、パンダ舎の前で、僕らの行く手を阻んだのは、1枚の看板だった。
そこには、こう書かれていた。
本日、パンダはお休みです
ん? なんだか、いまいち言っていることというか、書いてあることが、理解できない。
当時、僕は、小学校を卒業したてだった。この看板の漢字は、すべて読めるし、その意味もわかる。
だけど、なんだか、よくわからなかったのだ。
「休み」って、どういうこと? 上野動物園はちゃんと開園していて、だからこそ、僕らはここにいるわけだ。でも、「休み」なの?
なにが?
そう、パンダが。
ん? いや、そう言われても、ちょっと待ってくれ。
僕は、懸命にその意味を解釈しようとした。
そして、残念ながら、ひとつの答えに思い至った。
動物園自体はやってるけど、人気者のパンダは特別待遇で、ほかの動物たちが働いている中、特別休暇が設定されているということなんだろうか?
僕は、いつか、どこかで、かなり以前に、そんな記事かニュースを、目にしたか、耳にした気もした。
でも、パンダブームからは、もう何年も経っていたし、そんなこと、すっかり忘れていたし、知らないよ。
だし、だとしても、なんで今日なの? 今日は、春休みだよ。
しかも、僕らは、大阪の片田舎から東京に出てきて、わざわざ、一旦、鬼怒川温泉に泊まって、またあらためて東京に出てきたんだよ。
なのに、
本日、パンダはお休みです
って、それで、あきらめろって、言うの? 僕の顔色が豹変したことに気づいた妹が、
「お兄ちゃん、どうしたん? パンダは?」
と、か細い声で、尋ねた。
僕は、兄だ。妹が生まれたそのときから。
「ねぇ、パンダは、休みって、どういうことなん?」
と、不安そうに重ねて尋ねる妹に、
「うん、ジャイアントパンダは、休みなんやて」
と、こたえた。
「えー? なんで?」
「ジャイアントパンダは、人気者でごっつうようさんの人に見られるから、疲れやすいねんわ。多分、僕らに春休みがあるように、パンダにも春休みがあるんやで。兄ちゃん、そんなん知らんかったわ」
と、自分に言い聞かせるように、僕は妹に説明した。
その僕の声は、震えていたかもしれない。得も言われぬ怒りのせいか、やり場のない悲しみのせいか。
「でも、せっかく大阪から来たんやで。もう今日は帰るんやで。ちょっとくらい、見せてくれるんちゃうん」
妹の言うことは、ごもっともで、僕だって、誰かに向かってそう叫びたかった。
しかし、どうあがいても、あきらめるしかないことを、なぜかあのときの僕は、納得はしていないものの、理解していた。
どうしようもないのだ。
僕らに追いついてきた両親もまた、看板に気づいて、言葉を失った。
僕の父親も、母親も、子供である僕の目から見ても、そういうことには、とても疎い人たちだった。
事前にそんなことを調べる人たちでもなかったし、そんなときに、気の利いたことを言える人たちでもなかった。
母親がきつい視線を父親に送っているのが、見えた。そして、父親が、憮然としながらも、僕と同じうように、その怒りや僕らの運のなさやいろんなものを、どこにぶつけていいかわからずに、途方に暮れているのが、わかった。
「日光なんて行かずに、昨日、ここに来てたら、パンダが見れたのに」
そう思うと、くやしくてくやしくて仕方なかった。だけど、そう思いながらも、それは、言えなかった。
「あんな、ほかにも、パンダがおるんやで」
僕は、半ベソの妹に、話しかけた。それが、気休めにすぎないことは、僕自身が一番わかってたけれど、そう言うしかなかった。
「ほんまか? なんや、ほかにもパンダが、おるんか」
と、父親が、ホッとしたような声で、割って入ってきたけれど、
「それ、レッサーパンダやろ?」
と、妹が、妙に冷静に返してきた。
「うん、そのとおりや。でも、まぁ、しゃあないやん」
「うち、ジャイアントパンダが見たかったのに」
と、地面をにらみつけている。
「そうやなぁ、でも休みなんやから、どうしようもないわ」
「ズル休みなんちゃうん」
(えっ?)
「この前、みっちゃんは風邪引いて休んだって言うてたのに、ほんまは、家族で天王寺動物園に行ってたんやで」
「へぇ、そうなん。ほら、嘘は、アカンなぁ」
「そやろ、でも、お兄ちゃん内緒やけどな、わたしも死ぬまでに一回くらいは、ズル休みしてみたいわ」
と、なんだか話がどんどん逸れていくうちに、少し気持ちが和らいできたりもした。
レッサーパンダは、パンダというよりは、どうしても、タヌキに見えて仕方なかったけれど、僕ら家族4人はこれだってまぎれもないパンダなんだと言い聞かせながら、熱心にその姿を見ていた。
『レッサー』というのは、小さいという意味で、ジャイアントパンダの『ジャイアント』に対して、『レッサー』なパンダということで、その名前がついた。ジャイアントパンダが注目を集めるまでは、元々レッサーパンダがパンダだったのだけれど、いつの間にか、人気者のジャイアントパンダのことをパンダと呼ぶようになって、わざわざこちらがレッサーパンダと呼ばれることになってしまったというわけだ。
「お父ちゃんは、レッサーパンダの方が、好きやな」
と、レッサーパンダを見ていた父親が、出し抜けに言い出した。最初は、これはタヌキだって文句を言ってたことも、忘れて。
だから、その身勝手さに、家族の誰もが、その理由を尋ねはしなかった。
にもかかわらず、
「だって、今日も休まずに働いて、ほんま、お父ちゃんみたいに働き者で、ええやっちゃなぁ」
と、母親からの鋭い視線が刺さりまくっているのも気にせずに、とうとう言い切ってしまった。
おそらくだけど、いや、おそらくではなく、きっとそうに違いない。
今日、パンダが休みだったという不運なり、あまりの運のなさは、きっとこの父親がもっているものなんだろうなと、僕らは確信した。
確かに、この父親が、東京旅行を言い出さなければ、上野動物園にだって来れなかったわけだし、レッサーパンダすら見られなかったのだ。それは、認めよう。しかし、この結末の間の悪さというか、一種の寂寥感というのは、この父親がもってるもののような気がして仕方なかった。
もしくは、そう決めつけることで、この不運な旅を、無理矢理にでも誰かのせいにして納得するしかなかったのだ。
以上のような、長い長い苦い経験があったがために、タロンガ動物園に着いた僕は、とりあえず、カモノハシが休みでないことを確かめずにはいられなかった。
EventsやInformationという文字が書かれた掲示物に目を走らせたけれど、今日が『カモノハシの定休日』だなんて書いてあるものは、どこにもなかった。
なんせ、僕は、まぎれもなく、あの父親のDNAを受け継いでしまっているのだ。二度あることは、三度あるというなら、一度あったことは、二度あるということだ。
とにかく、僕は、カモノハシのいるタロンガ動物園に無事に辿り着いた。しかも、カモノハシは、休みなんかじゃない。
次回は、きっと、感動的な最終話になるだろう。乞うご期待。
(今回は、ほんとうに、申し訳なかったです。まさか、こんな長い話になろうとは………。)
【追記】
1981年、神戸ポートピア博覧会が、開かれた。
そして、そのときにも、中国から、ジャイアントパンダが貸し出された。ロンロン(メス)とサイサイ(オス)の2頭だ。
そして、そのパンダ館という建物は、メイン会場からすこし離れた場所に建てられていた。
僕は、17歳の高校2年生になっていて、すっかり声変りだって終えていた。
ジャイアントパンダは、日本でもすでに、周知の動物になってはいたものの、関西初のお目見えだった。
パンダ館の入場口に並んでいると、どこからともなく、おばさんたちのはしゃぐ声が聞こえてきた。
「いくらなんでも、こんな早くから、パンダ見に並んでる人なんか、私らだけなんちゃうん」
僕は、その声に、振り返って、微笑んだ。
いや、僕は、あなたたちより更に30分以上も早くから、ここに並んで待っている。今度こそ、絶対にジャイアントパンダを見てやるのだという、固い固い決心と、あれから5年間の思いを背負って。
(つづく…)感動のフィナーレは、こちら。キミは、カモノハシを見たか?(最終回)